内容を非童話的に概説すると、一郎という子供のところにハガキが届くところから始まる。山猫からで、面倒な裁判をするので来てほしい、というものだった。その面倒な裁判とは、どんぐりたちの”一番偉い”形態を決めるということであった。頭の尖っているもの、丸いもの、大きいもの、背の高いものなどが、それぞれ自分が一番偉いのだと主張する。今日で3日目、このままでは埒が明かない。山猫は一郎に相談する。一郎は、お説教で聞いた「一番馬鹿で、メチャクチャで、まるでなってないものが偉い」としてはどうかと答える。これには騒がしかったどんぐりたちも静まり返った…。
考察その1 このどんぐり達の自分が一番偉いと主張する姿は、修羅の世界の様相である。修羅の相は、他者より優位にありたいという煩悩で、宮沢賢治にとっては、忌むべき現実世界そのままの実相である。
考察その2 どんぐりたちを黙らせた一郎の説は、法華経に出てくる須梨槃特(=周利槃特)のことだとすぐわかった。愚鈍だった彼は、優秀な兄と違い、教えの句のひとつも覚えられなかったが、釈迦の指示により掃除三昧を20年間続け、阿羅漢の悟り(上座部での最高の悟り)を得た。
…このように、「どんぐりと山猫」は、おそらく一郎が”お説教”で聞いた須梨槃特の話が元になっていると推察できるわけだ。
ちなみに、法華経以前の経典では、成仏できないといわれていた二乗(声聞・縁覚=舎利弗や阿難といった優秀な釈迦の高弟)と呼ばれる頭の良い者より、須梨槃特のように愚鈍でも素直に精進する者を称えていた。しかし、法華経では、二乗作仏が説かれ、女人成仏も説かれている。
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