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ポピュリズム(大衆迎合主義)はなぜ台頭したのか、から話が始まる。それは、民主社会と消費社会がべらぼうに大きくなって、メディアや技術の力で、がんじがらめに接合したからだと松岡は説明する。スペインのオルテガは「大衆の反逆」の中で、『体臭は自分では何も考えずに、皆と同じであると感じることで安心する集合体である。』また『(大衆の)観念は思いつき、信念は思い込み』とも言っている。すぐに心変わりする大衆は無責任に兆候を現実に変え、投票動向や勾配動向など「数」として表れ、「質」の決定が起こる。新しいリヴァイアサンである。それが最も顕著であるのが、マスカルチャー(大衆文化)のアメリカである。
そのアメリカはゲーム理論に溺れたと松岡は言う。「ドミノ理論」以来、冷戦下で抑止力のための「ゼロサム・ゲーム」などキューバ危機もこれで乗り切れたのだが、ベトナム戦争では大失敗する。アメリカ人は、このゲーム理論が大好きである。その理由は「自分たちが最も理性的で、一番合理的な計画と行動ができる。」と思っているかららしい。ただし、この矜持には決定的な欠陥があって、相手もそこそこ合理的であるという想定をしていて、それをはるかに上回るシナリオを作れるという過信しなければ気が済まないらしい。ゲーム理論では、第1段階ではあまり合理的ではく普段の行動や慣習に基づく判断を行なう。(アヘン戦争や黒船来航、湾岸戦争やイラク戦争)第2段階はプレイヤーの数が増え、個々のプレイヤー同士の間に変数が生じる(WWⅠでバルカン半島を狙う独と露がオスマン・トルコを巻き込んだ事例など)第3段階では、それまで以上の複合的な戦略が必要になる。いわゆる「ナッシュ均衡」(ゲーム理論でプレイヤーの行動が互いにベストレスポンスになっている状態)である。アメリカの戦略家はこういう難度の高いゲームの解明に夢中になったが冷戦が終わり、一挙に金融ゲームの理論に転用されたわけだ。ところで、このゲーム理論の最大の陥穽(かんせい:落とし穴)は、合理的思考を超えたウサマ・ビンラディンの9.11・自爆テロやヒトラーのような狂気のプレイヤーが登場すると成立しないわけだ。
さて、このゲーム理論を用いた戦略計画者のことを「ネオコンサバティズム」と言う。80年代以降の世界戦略を軍事面も経済面でも指導したスループの総称であり、その考え方の総称でもある。冷戦前期とアメリカ一強時代の後期で違う。前記については、フランシス・フクヤマによると、次の4思想を貫こうとしていた。
①民主主義と人権を重視し、広く各国の国内政策、レジームを重視する。
②アメリカの力を道徳的目標に使うことが必ずできるという信念をもつ。
③重大なる安全保障問題の解決には、国際法や国際機関は頼りにならないと確信する。
④大胆な社会改造は予想し難い弊害をもたらし、改革の目的まで損なうという見逃しをもつ。
これはまさに、戦後日本に適用したシナリオである。しかし、後期のネオコンは、新たなシナリオ「新自由主義」を立てる。戦後のアメリカの繁栄は、反共主義・新植民地主義とともにこの新自由主義という強力な経済政策によって得られた。
新自由主義は、ドル・ショック後のサッチャリズム・レーガノミクスの「反ケインズ政策」で、福祉国家=大きな政府を縮小し、国家による基幹産業への関与を減らし、税率を下げ、民活・規制緩和を進める政策である。保守党右派のサッチャーは鉄の女と呼ばれるが、ソ連の国防省の既刊紙(ママ)「赤い星」が揶揄したもので本人が気に入ったらしい。「私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ。」「意見の一致には危険が潜む。何についても特定の意見を持たない人々を満足させようと試みることになりかねない。」「強者を弱くすることによって弱者を強くすることは出来ない。」などの名言があるそうな。反ポピュリスズム、バリバリである。面白い発言にはこんなのもある。「ヨーロッパは歴史によって作られ、アメリカは哲学によってつくられた。」…この言葉の真意はわからない。アメリカの代表的思想はプラグマティズムであるが、これを哲学の範疇にいれていいものか悩むところだからだ。
レーガンの経済政策の方は、政府が通貨の供給量を調整するマネタリズムと戦略防衛構想SDIで一方で成果を上げつつも、世界中にマネーゲームを撒き散らした功罪もある。
①社会保障費と軍事費によって経済を発展させ強いアメリカをつくる。
②減税によって労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し、投資意欲を促進する。
③規制を緩和して民間企業が強いアメリカに貢献できるようにする。
④通貨高を誘導してマネーサプライ(通貨供給量)の伸びを抑制しインフレを低下させる金融政策を実施する。
ハイエクやフリードマンの市場原理主義的な経済理論が基盤にあるが、ここで松岡は、新自由主義と個人主義を同義語として見る。とともに、その個人主義の問題を指摘する。この個人主義は、人間の判断や行動は必ずや合理的に説明できるはずだというもので、前述(22日のブログ参照)のフロイトやユングの「闇」もカフカやカミュの「非中心」も、全く無視されている、と。市場で言う自由と社会の中の自由、個人としての自由を一つの理論や政策で重ねてしまっている。もっとはっきり言えば、新自由主義は、単に自由の名を借りたプレイヤーためだけの新たなゲーム理論に近いものではないか。アメリカ主導の資本主義のための自由にすぎないのではないか。資本主義の仕組みは「世界を同質の資本主義にするためのものだった」のか?それがグローバル資本主義の正体だったのか?という問いにつながっていくというわけだ。
…今回の第11講には、こんな記述もあった。新自由主義を批判したアマルティア・センの著作名である。『合理的な愚か者』。ところで、隣国のウォン安が止まらないらしい。0.5%という大幅な利上げを行ってもダメで、株安も進んでいる。しかも政府がクレジットカードの使用で内需拡大しようとした政策が裏目に出て、家庭内の債務が膨大に増え、17%強の家庭が収入以上の債務返還にさらされているとか。当然ながら、これまでのことを棚に上げて日本に通貨スワップの要請などしてこれないだろう。いや、『非合理な愚か者』は、ゲーム理論を超えてくるかもしれぬ。(笑)
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