『都会の英の具』とは何か。それはまさしく資本主義的社会システムそのものである。地方に残っている恋人は、「流行りの指輪」を欲していない。最終的に都会の絵の具に染まってしまった彼と別れることになり、涙を拭く(最も単純に生産され、安価な商品としての)「木綿のハンカチーフ」を欲する。これが地域間格差以上のことを歌っているように思えるのは、今読んでいる松岡正剛の「国家と私の行方」の第2講を読み終えた直後だからだろう。
第2講は、「みんな」と国家と資本主義というタイトルで書かれている。その内容は多岐にわたっている。国家についての結論的な部分は、ネーション・ステートすなわち「戦争ができるみんなの国民国家」であり、フランスのルネ・ジラールの著書「世の初めから隠されていること」にあるように、国家は民営化が押し進めながらも、警察や裁判を国が引き受けている事情は、国家の暴力性にあるというわけである。これには納得である。松岡正剛という人は、立花隆や佐藤優に並ぶ読書家であり、日本を代表する知の巨人の一人であると思う。
さて、資本主義の考察も、署名にあるように「18歳におくる」という添え書きどうり平易に記されている。アダム・スミス、マルクス、アマルティア・セン、ハイエク、シュンペーターなどの資本主義批判を解説した後、意外な結びに入っていく。ドゥルーズ=ガタリ共著の「アンチ・オィディプス」(1972)である。(私はドゥルーズが好きだが、さすがにこの書について倫理の授業で教えたことはない。)せっかくなので、倫理の授業をしているつもりで松岡正剛本にしたがってエントリーしておきたい。
一言でいうと、この大著は「欲望と機械がくっついた状態」を問題にしたものと記している。我々の身体や欲望は、サラのままでは取り出せない、自由もサラではない。ことごとく道具や機械やシステムとぴったりくっついている。我々は通貨とくっつき、眼鏡とくっつき、鉄道や自動車とくっつき、病院や精神医学や死とくっつき、PCやケータイとくっついている。いったんくっついたらなかなかとれない。そういうことを強調し、ドゥルーズ=ガタリは、「機械状」(マシーヌ)と名付け、我々の資本主義は「欲望機械」であると断じた。戦争は様々な武器や軍事という機械とくっついているから欲望機械のお化けのようなものであると。
この「アンチ・オィディプス」は「千のプラトー」というタイトルの本と二冊一組になっており、「資本主義と分裂症」というサブタイトルがついている。分裂症(現在は総合失調症)は、資本主義が作ったということを示している。分裂症の本質は、欲望が内部に向かって押しつぶされたものであるから、資本主義が欲望の市場を作っているのだとしたら、資本主義は「欲望を内部に詰め込んで人間の精神を犯す機械」だという主張となる。技術と欲望が不即不離になっており、そのくっついたものから現代の様々な精神病が生まれているという指摘である。
ここからは、少し「現代フランス哲学」(久米博:新曜社/1998)を参考に少し深掘りしておく。ガタリは精神医であり、前述の機械状の理論から、フロイトやラカンらの「パパ・ママ・ボク」といった家庭主義に閉ざしたエディプス・コンプレックス理論(ギリシア神話のエディプス神話の悲劇から導かれる男子が父を殺し、母を娶ることを欲する心理学説)の精神分析に対抗する意味合いが、「アンチ・オィディプス」というタイトルに込められているわけだ。(エディプスとオイディプスは読み方の違い)同時に、フロイトやラカンは、エディプス化された無意識は神経症化されるのとしたのに対し、分裂症化したと説く。
…木綿のハンカチーフで歌われた「都会の絵の具」とは何か。欲望機械そのものである都会に出た彼は、恋人が危惧していたとおり、機械状化してしまった。都会の絵の具とは、資本主義の生産と欲望が生み出す様々なモノとの「くっつき」状態である。「現代フランス哲学」をもう少し参照すると、ガタリは分裂症を自然人だと見る。『分裂症は、生産し再生産する欲望する機械の宇宙である。』うーん。すると、「涙拭く 木綿のハンカチーフをください」と望む女性は、この欲望機械の中で実に貴重な存在なのだということになる。だからこそこの曲が分裂症の我々の心をうつのであろう。
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