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https://www.hubbis.com/news/hsbc-malaysia-opens-new-head-office-in-trx-kuala-lumpur |
イギリスの国際収支の資料によると、1816年から20年の貿易収支は、-10.58(✕100万ポンド以下同じ。)で、1876年から80年では、-123,74と、この間ずっと赤字で、しかも増加傾向にあった。すなわち、イギリスの工業製品の輸出で儲けていたわけではなく、反対に赤字だった。しかし、貿易外収支(海運業、サービス業、海外金融業、海外投資の収益)で稼いでいたのである。1816年から20年の貿易外収支は、17.80。以後ずっと黒字で増加しており、1876年から80年では、148.56。よって、経常収支は、ずっと黒字である。しかも海外債権残高は莫大に増え、1816年から20年では、46.1だったのが、1876年から80年では、1189.4にまで増加している。以上の点から、イギリスが覇権を握った理由は産業革命による生産力拡大にあらず、と言えるのである。
イギリスは、三段階の悪辣な収奪システムによって覇権を握る。まずは、16世紀の私掠船の略奪(2023年9月3日付ブログ参照)、第二段階は17~18世紀の奴隷三角貿易、第三段階は19世紀のアヘン三角貿易である。いずれも受験の世界史でも登場する内容である。
ここでは、奴隷三角貿易において、イギリスはスペインやフランスとの競合者との戦争に勝利して以来、奴隷貿易を独占し、投資家は30%程度のリターンを得ていたとのこと。当初西インド諸島で砂糖のプランテーションで大きな利益を得ていたが、やがて綿花プランテーションもつくられ、さらなる需要のためにアメリカ南部にも拡大した。1783年、独立したアメリカは奴隷に家族をもたせ、子孫を永続に住まわせることで奴隷人口を増大させた。よってイギリスの奴隷貿易額は減少した。さらにアフリカ地域の人的資源が急激に枯渇し、奴隷の卸売価格が上昇、さらに砂糖・綿花の生産量増大で価格が低下し、奴隷貿易の利益は先細りになる。人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年奴隷貿易禁止法を制定するが、19世紀半ばまで続く。さらなる砂糖・綿花の供給増で、自然消滅していった。つまりは、人道的云々ではなく、経済的理由で奴隷貿易から手を引いたに過ぎない。とはいえ、奴隷貿易で搾り取れるだけ搾ったわけである。
…今回はアヘン貿易については省略するが、その中心は、ジャーディン・マセソン商会で、アヘン戦争後、HSBC(香港上海銀行)が設立される。ジャーディン・マセソン商会をはじめとしたアヘン貿易商社の資金融通や送金業務を請け負った銀行である。HSBCは、マレーシアでもたくさんの支店をもっていた。私は関係を持たなかったが、それで良かったのだと思っている。
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