2023年5月15日月曜日

第2代から第6代イマーム

http://www.hajij.com/ar/islamic-events/item/986-1392-06-12-05-14-34
「シーア派イスラーム-神話と歴史-」のイマーム論を続けたい。第2代イマームは、アリーの長男のハサンである。祖父・ムハンマドに概観と性格・気質が似ていると言われたほど愛されていたが、ムアウィアの陰謀でメディナで毒殺されたらしい。
第3代イマームは、弟のフサインである。彼は、前述のカルバラの戦いでムアウィアに破れ死ぬのだが、パトス的側面を代表するイマームである。殉教の際にも暗殺者を心遣うことが『殉教者の園』に描かれ、前述のタァーズィーエで演じられる。
もう一つ重要なことは、フサインの妻はササン朝最後の王(ヤズデギルド3世)の娘(シャフルバヌー)で、イランとのつながりがここに生まれる。ウマルがカリフの時代、シャフルバヌーは、捕虜となり奴隷に売られかけたが、ムスリムのうち誰かを選び結婚することになった。彼女が選んだのが後に第3代イマームになるフサインだったわけだ。カルバラの戦いの時、女子供はダマスカスのウマイヤ朝にフサインの首級とともに連行された。その中に兄弟が全て殉死したのに、病身であったがゆえに生き延びることになったのが、シャフルバヌーが生んだ(シャフルバヌーは、その直後に亡くなった)アリー・ザイヌル・アービディーンで、彼が第4代イマームとなる。彼は、メディナに戻り、積極的に政治に関与することはなく、耐えざる祈りと周囲への教育に日々を送ったとされ、1日1000回の礼拝を行った。カルバラーで父や親族の殉死を目の当たりにした体験故に、追悼のうちに過ごしたとも言われる。アリーと風貌が似ている良き性格の、忍耐の人であった。
第5代イマームは、このザイヌル・アービディーンと第2代イマーム・ハサンの娘との間に生まれたムハンマド・バーケル。彼もウマイヤ朝の陰謀で毒殺されている。また弟のザイドはウマイヤ朝に対して反乱を起こした人物で、ザイド派が生まれている。

第6代イマームは、ジャファル・サーデク。彼は、シーア派のロゴス面を代表しているとされている。というのは、この時期ウマイヤ朝が没落、反ウマイヤ朝でムハンマドの叔父にあたるアッバース家のアッバース朝が興隆した時代で、アリーの血統とシーア派はうまく利用されることになる。サーデクも各地を転々とさせられた。しかし、彼が力を入れたのは、父以来の教義面の研究・教育で、十二イマーム派の教義を明確にし、同時にスンニ派の4大法学派のハナフィー派の開祖ハニファーやマーレク派の開祖マーレクらが学んでいる。この第5代・6代のイマーム伝承は、ムハンマドの伝承と他の10人のイマームの伝承を合わせたものより多いといわれている。

シーア派では、法的判断の基準として、クルアーン、ハディースとイマームの伝承、イジュマー(共同体の総意)に加えて理性の働き(アクル)を加えている。神には2つの証明があって、これを通じて神の意志を知る。内的な理性、外的な預言者であり、時に理性は内的な預言者、預言者は外的な理性と呼ばれる。理性によって打ち立てられたものは、宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいというわけである。スンニ派のキャース(類推)はないわけだ。この辺の相違はなかなか難しいし、興味深いところだ。

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