2023年5月23日火曜日

西田哲学の純粋経験 A B C

「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)を開いて、私が最も興味を持ったのは西田哲学の内容だった、と以前書いた。本日のエントリーは、小川尚登氏の「西田哲学とスティーブ・ジョブズと題されたコラムについて記したい。まず西田哲学の全体像について記されている。

ここでは、詳細を避け、西洋哲学とのベクトルに違いについてだけ記しておきたい。「超越的な知性の絶対を求める静的な西洋哲学とは違って、東洋の真理とは静止したものではなく、無常という動的なものであるから、わかった(=分析できた)と思うではなく、つねに探求し続けていくことが重要である。(中略)どこまで掘ってもさらに掘り下げていかなければならない底なしの世界が東洋思想なのである。」というのが、小川氏の主張。…たしかに。西田哲学とは仏教の西洋哲学的言語化であるので、縁起説が基盤になっている故、そうなる。

この前提の上で、西田哲学の「純粋経験」について述べられている。(西田哲学は)掘るのである。いかに掘り下げていくかというところに意識が向いている。自己を見せびらかすのではなく隠していこうとする、これが純粋経験である。純粋経験とは、今を大切にし、自己を知的に研ぎ澄ませながらも、その一方で自己をなくすことで世界と共鳴していくプロセスと言うことができる。純粋経験は、新生児の意識や花を見てきれいだと思った瞬間、ピアノ演奏で勝手に指が動いたり、何者かに弾かされている感じなど、感覚や知覚、記憶や想像、感情や意志等すべての精神現象を対象にしている。

「善の研究」を読むと純粋経験には、三段階あることがわかる。純粋経験A:最も究極的で理想的な純粋経験としての「知的直観」。純粋経験B:反省的思惟のように、主客の分裂を前提とする分別的作用や判断的作用。それらの作用を通し、統一的惑者(=純粋経験A)が生まれる。純粋経験C:ここの意識の背後あるいは根底にある普遍的な原罪意識。

純粋経験は、C→B→Aと弁証法のように発展していく。ただし、弁証法と言っても静的な最終到達点(ヘーゲルの歴史哲学では自由)はなく、純粋経験は、不断に分裂と統一を繰り返しながら体系的に自発発展していく普遍的な意識の流れ、あるいは生命の流れである。

純粋経験Cは、リベラルアーツであるというのが小川氏の結論である。単に本を読み共用を身につけるだけではなく、自分なりの仮説を立て他者にプレゼンしていくプロセスの中で切磋琢磨していく必要があり、CがあってこそBがあり、Aがあるわけだ。

スティーブ・ジョブスが2005年にスタンフォード大の卒業式で行った有名なスピーチで強調したのは、まず”点をつなぐ”ということで、自分を信じて打ち込むことが重要であると述べている。彼は学生時代から東洋思想に深く傾倒し、それが経営哲学に組み込まれた。これは純粋経験C。それがBを経てCの知的直観に達した、と小川氏は分析する。また彼は膵臓がんに侵され死を覚悟していた時期でもある。知的直観を鍛えろというスピーチは、西洋人インテリが東洋思想に耳を傾ける時代がきたような感覚があるが、日本人として西田哲学を学ぶ意義は大きいと小川氏は説くのである。

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