ラマダンの時期、モスクやレストランでは食事がタダで振る舞われる。(多民族国家であるマレーシアでは、そのようなことはなかったが、中東ではあるようだ。)モスクはメンバーシップがないので、誰でも入れてお金がなくても食べられる。「ドゥユーフっラフマーン(アッラーの客)」と呼ばれるらしい。肉も出て、わりと贅沢で、気兼ねもいらないとのこと。貧乏な人でもラマダンの時は1ヶ月腹いっぱい食べれるわけで、施しの文化というか福祉政策でもあるわけだ。(ちなみに、マレーシアでは国王による、すべての人に開かれた無料の食事会が開催される。その日たまたまバスに乗っていて、貧乏な人がわんさかと乗ってきてびっくりしたことがある。またモスクで牛を解体してタダで集まった人たちに分け与える犠牲祭もあった。)
ムスリムのユダヤ教・キリスト教観について。今日のユダヤ教は、ラビ・ユダヤ教と呼ばれるもので、キリスト教とほぼ同時期に並行して成立したもの。キリスト教もまた成立当初は後にユダヤ教と呼ばれる宗教と別の宗教であるという自意識はなかった。イスラエルの民の宗教としか呼びようのない名無しの宗教であった。ヘブライ語聖書にはアダムやノアが出てくるが、彼らをユダヤ教徒だと呼ぶ者はいない。考えてみれば不思議である。イスラムは単純明快な答えを持っている。神の啓典を授かった者はすべて預言者で、アダム以来の預言者の宗教はすべてイスラムである。ユダヤ教のユダヤは歴史的固有名詞であり、イエス・キリストも特定の人物をさす固有名詞だが、「服従」「帰依」を意味するイスラムは一般名詞あり、イスラムの普遍主義を端的に表している。全ての預言者の教えはイスラムであり、それが唯一の正しい宗教である。しかし、時代と状況の違いにより教えの詳細は異なり、表現が違っている。モーセの授かった啓典が律法(トーラー)、イエスの授かった福音は、ユダヤ教徒が持つヘブライ語聖書、キリスト教徒が持つ新約聖書とは全く別のものである。なぜなら、モーセ五書もマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は聖書記官が編集したモーセの伝記、イエスの伝記であるからで、イスラムにおけるモーセの律法、イエスの福音は授かった神の言葉のみである。また、現在のラビ・ユダヤ教は、モーセの律法とは別に、モーセの口伝律法があり、ラビがその権威ある正統な伝承者と主張して、ラビの学説集であるタルムードを第ニ聖典としたし、キリスト教では弟子たちの言葉を編集して新約聖書としている。イスラムは、神から遣わされた預言者がもたらした啓典のみを人間が従うべき指針としているので、許しがたい被造物神化に他ならない。よって、ユダヤ教はモーセの律法をイスラエルの民が歪曲、改変したものをラビが集大成したもの、キリスト教はイエスの福音を直弟子の後の世代が誤って解釈し歪曲されてつくられた宗教だとしている。
…ここで、中田氏は、クルアーンの第一章の「扉」の最後の「お怒りを被った者」(ユダヤ教徒への批判)「迷ってもいない者たち」(キリスト教徒への批判)の真意を語っているのである。
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