2024年3月18日月曜日

軍務局長 武藤章を読む 2

https://ganshoji.com/publics/index/37/detail=1/b_id=905/r_id=2318/
武藤章という人物はなかなか捉えにくい人物であるようだ。陸軍という組織にあって、官僚的な地位にあった時期が長く、兵を率いる長の時期が短い。ともすれば傲岸不遜だと評されることもあるが、その評の多くが陸軍官僚の時代のものである。

この新書を読んでいて気付いたことをまず書きたい。2.26事件などが「青年将校」が主導したとよく言われるが、武藤章も陸軍官僚としてドイツ留学を終え、兵学研究に務めた後、佐官になった頃からは、発言力が増していく。これは、日本の伝統的な組織の構造からくるものと私は思う。トップダウンの組織は日本では稀である。だいたいが、会議中ほとんどトップは黙して語らず、下の意見を参考に最後に決断だけ行うという美学のようなものがある。その場の空気が重視されるのである。

満州事変では、武藤がドイツ留学で知遇を得た石原莞爾がその空気を作った。武藤は事変当時、陸軍中央にあって無関係だったが支持に回った。日支事変では、武藤がその空気を作った。

さて、陸軍の派閥というと、皇道派と統制派であるが、最初は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の陸軍士官学校16期生の3人が、ドイツのバーデン=バーデンで、陸軍改革(長州閥批判とWWⅠでの総力戦に耐えうる改革)を語り合ったことに始まるのだが、後に永田と小畑が対ソ戦略で対立したことが派閥争いの源となった。小畑はソ連の国力が未完成のうちに攻撃し満州への脅威を事前に取り除こうとしていたが、永田は時期尚早としていた。武藤は永田についていた。よって統制派である。

その永田鉄山(軍務局長・少将)が陸軍省内で(皇道派の)相沢三郎に暗殺される。(=相沢事件)当時軍務局軍事課高級課員・中佐だった武藤が局長室に駆け込み抱きかかえたが息を引き取ったとされている。その後の皇道派による2・26事件では、永田の仇討ちとばかりに、軍務局軍事課を武藤が鎮圧にまとめあげた。

武藤章には、こういう「空気」をつくる能力があったわけで、この後統制派が実権を握り、彼の発言力はさらに増していく。…つづく。

0 件のコメント:

コメントを投稿