2024年6月30日日曜日

コーランの中のキリスト教Ⅴ

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キリスト教神学の「聖書学」の見地から書かれている「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)の書評、最後に重要な補足的な内容についてエントリーしておきたい。

まず、マリアの受胎告知云々について、(マリアの婚約者であり、この世におけるイエスの父的存在である)ヨセフのことは全く出てこない。反対に、「ヤコブ福音書」にも記述がない、エジプトへの逃避行時の「椰子による保護」が違う形で語られている。これは「偽マタイ福音書」(20章)にあるそうだ。

また預言者たちの末路は、旧約・新約ともに悲惨な事が多いのだが、クルアーンでは神によって苦境と迫害から救い出されるようになっている。慈悲深きアッラーの面目躍如である。

クルアーンの第4・婦人章(=女性章)には、イエスが十字架刑で殺されたことになっていることを、157節『「私達は、アッラーの使徒、マルヤム(=マリア)の子マスイーフ(=メシア:救世主)、イーサー(=イエス)をを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だが彼らが彼(イーサー)を殺したのでもなく、また彼を十字架にかけらのでもない。只彼らにそう見えたまでである。本当にこのことについて議論する者は、それに疑問を抱いている。彼らはそれについて(確かな)知識はなく、只憶測するだけである。だが、実際に彼を殺したのではなく、』158節『いや、アッラーは彼を、御側に召されたのである。アッラーは、偉力ならびなく英明であられる。』とある。(画像参照)

このように、イエスの刑死さえも、神によって召されたとされている。このことは、キリスト教神学の聖書学の立場からは、ここにもユダヤ人キリスト教徒の味方をしている、と論じられている。また、イエスの磔刑と復活が、クルーアーンでは救済的な意味を持たない。神の子としてのイエスを拒否し、イエスを1人の人間以上の存在であるというキリスト教信仰の否定である、と辛辣である。

またクルアーンはキリスト教を(三位一体説でイエスを神の子としていることに対して)多神教扱いしており、アラブの部族女神、アッラート、ウッザー、マナート(かつてカーバ神殿で神とともに祀られていた)と同様に見ていると批判している。(ちなみに、ジン=霊・妖怪の類は神が造られたとして存在は否定されない。マレーシアの教え子たちにジンの存在を教えてもたったのを思い出す。)

何度も記しておくが、クルアーンは、天使ガブリエルを介してヒラーの洞窟でムハンマドに与えられた神の啓示であるという立場をイスラム教はとっている。アッラーは、ヤハウェであり父なる神であるというスタンスであるから、旧約や新約の内容が含まれるのは当然である。ただ、それが単なる引用ではないところが、第三者のブディストである私にとっては、実に興味深いところである。

この本、実に勉強になった。一神教についてある程度の理解がないと難解に過ぎるとは思うけれど、キリスト教神学の聖書学と、クルアーンの記述の両者は、おそらく前述の『啓示』という一点で理解し合えることはないと思われる。

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