2024年6月6日木曜日

フーコーとマネの絵画

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「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」で、もうひとつ絵画の話が出てくる。マネの「フォリー・ベルジュール劇場のバー」である。フーコーは、15世紀以来の二次元のタブローから鑑賞者の目を逸らせ、三次元の表象空間に置き換えようとしてきた。この絵は見るものと見られるものとの間に自由な距離が置かれていると言う。この絵には、前述のベラスケス同様に鏡が描かれているが、こっちは画面全面を覆っており、不在の王はまさに不在。それどころか鑑賞者が占めるべき位置を指定する画面内の中心点も不在である。

しかも彼女を見つめるシルクハットの男性も彼女自身の後姿もありえない角度に歪んでいる。男性を見ていると思われる彼女の眼差しも視点が定まっていない。見るものの視点で、この彼女の眼差しは、焦らしているとも、誘っているとも、恥じらっているとも、あるいは放心しているともとれる。見る者と見られる者の視線の戯れ=駆け引きの空間をマネは現出させている。

この絵画を、高校倫理的に説明すると、自己(主体)と表象(客体)は、弓道のような動かない的ではなく、動き回る対象に対して、自ら距離をおきながら、間合いを取って相対するテニス、あるいは刻々と局面の変わる囲碁や将棋などのゲームのように、一方的に相手を対象として見るのではなく、相互に役割を交換しながら、その間の距離を見る、というものである。

デカルトのような表象を理性が認識するというのではなく、またハイデガーの世界内存在でもなく、メルロ=ポンティの可逆的身体とも異なる、フーコーの表象の見方であるといえる。だからこそ、狂気や監獄といったそれまでとは全く違う見方が現出してきたのだといえるだろう。

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