前期の「論理哲学論考」には、一般的な独我論(本当の意味で存在するのは、私だけであり、それ以外は全て、私のこころに浮かぶ表象にすぎない、という説)を「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」というテーゼで論破し、先程のアフォリズムに到達するという構成になっている。後期の「言語ゲーム」(たとえば、スミマセンという言語には、”どいてください”や”ありがとう”などの”お詫び”以外の意味が、ソシュールの言葉を借りれば、その場その場でのパロールが存在する)は、「無主体論」から導かれた私的言語論からきている。
この本が味読に値するのは、むしろ序章の維摩経をウィトゲンシュタイン補助線として紹介しているところにあると私は思う。「”私”は全てであるからこそ、”私”は無に等しいのである。」という著者の(前期ウィトゲンシュタイン哲学のエッセンスといえる)視点は、まず、三角形や四角形の角の数を増やし、何千角形。何万角形にしていくと円に近づいていくという話から始まる。角が無限に多くなることは角がなくなることに等しくなるように、極端に反対であることは実は一致していることがある。「正反対の一致」である。”私”というあり方は無限に強力で特異であるからこそ、全く目立たなくなり消えてしまう、そういう「正反対の一致」を、著者は維摩経の入不二法門品から紹介している。
在家信者の維摩が、「不二の法門に入る」(=悟りの境地に入る)とはいかなることかについて問い、文殊を中心に、31人の菩薩がそれぞれ自説を述べ議論する内容である。「生じることと滅することが二である。生じることがなければ滅することはない。法は無生であることの確信を得ることが不二である。」「幸福と不幸が二である。知識が極めて清浄なためにあらゆる数値を離れており、知恵が虚空と等しく遮られることが不二に入ることである。」「これが世間的的なもの、これが超世間的なものというのが二である。世間の本性が空である場合、そこにはなんらそこから超世間的へ出ることもなく、そこへ入ることも行くことも行かないこともない、これが不二である。」などと菩薩たちが述べる。最後に、文殊が「あなたがたが説いたところは、それもすべて二である。なんらの言葉も説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない、これが不二に入ることである。」と言う。
文殊は、それまでの菩薩の言説を「ことば」という点で一括りにして、どれも二であると退けている。「ことば」の本質的な働きとは「分ける」ことであり、たとえば、Aという名前をつけることは、AとA以外を分けることである。よって、「ことば」は二なのである。そこで、無語、無言、無説、無表示…こそが「不二」(=分割の未遂行)となるわけだ。
文殊は維摩に、(あなたが出した問なので)「不二の法門について何か語って欲しい。」というのだが、維摩は口をつぐみ何も言わない。「維摩の沈黙、雷のごとし」と言われ、維摩経のクライマックスとされる。この沈黙については、様々な視点があるが、維摩の沈黙は「ことば」の到達不可能な外に位置するとともに、この不二をめぐる「ことば」の中に巻き込まれて(そもそも問を発した故)「内」にもあるといえる。もしかしたら、この「ことば」のゲームに巻き込まれず、ただボーッとしていただけかもしれない。”悟り”と”おおぼけ”は紙一重かもしれない。
この維摩経・入不二法門品は、「正反対の一致」「語ることと沈黙」「言語の内と外」「言語ゲーム」などウィトゲンシュタインの哲学のポイントと繋がっている。なにより、著者の名字はこの入不二法門品に由来するとのこと。実に面白いではないか。
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