1984年、『狂気の歴史』で度々論及した病院で死去したフーコーが運び出された時、多くの知人・友人の見送りを受けた。これが実質のパリでの葬儀となった。とはいえ正式なものではないので祈祷は行われず、最後の著作『快楽の用法』から、その一部が朗読された。朗読者はドゥルーズであった。
「哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、他のように考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか。哲学的な言説には、自らに疎遠な知に関して修練を積むことで、それ自身の思考のうちで何が変わりうるのかを開拓する固有の権能がある。この試み―自分自身の変容のための試練という意味であって、他者を単純化して自己に同化するという意味に解されてはならないーこそ、哲学の生きた身体であり、少なくとも、哲学がかつてあったように依然として今もあるとすれば、思考における、いわば修練、自己自身の鍛錬である…。」
この本の副題は、「他のように考え、そして生きるために」である。難解な文章であるが、実に魅力的なコトバである。じっくりと読んで、そのエッセンスをまたエントリーしていきたいと思っっている。
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