2024年5月16日木曜日

聖母マリアとその原罪論

「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)から、興味深い箇所を拾ってみたい。カトリックもオーソドックス(長いので、以後正教会としたい。)の類似点で、著者は様々な表象・象徴を使う事を挙げている。しかしながら、有名なザビエルの聖画で、十字架が貫いている心臓を抱く姿を、正教会には見られない表象とわざわざ記している。有名な聖画だが、私は(頭のてっぺんにばかり目が行って)意外にこの心臓を見逃していた。そこで大きな疑問が湧いた。学院はザビエルのイエズス会が創設した学校で他県の姉妹校も同じ校章である。校章は、ハートの上に十字架が描かれている。この聖画と関係があるのではないか、と思ったのだ。宗教科の先生にお聞きすると、関係がないとのこと。学院のHPで確認してみたが、ハートについての記述はなかった。でも面白い一致だと思う。ちなみに、宗教の先生は、ザビエルの頭のてっぺんについて、ザビエルとは異なる不真面目な修道院の習慣で、この聖画は間違っていると、熱弁を振るわれたのだった。この話も面白い。

さて、本題。聖母マリアについて、両者とも崇拝している。カトリックは可憐な乙女のイメージが強く、正教会の方は成熟した女性として描かれている感じがするそうだ。(学院内にはマリアの聖画や像がたくさんあるが、たしかにそうだ。)カトリックでは、「無原罪の宿り」を聖母マリアの称号とし、原罪がない存在である。カトリックでは原罪とは、「人間の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、全ての人間は原罪をもって受胎し生まれる。」としている。よって、原罪とは、罪と死の人間の本姓・根源への感染、死に至る体質の遺伝と規定しているわけであるが、イエスとマリアは除外されている。

これに対して、正教会では、原罪について、人の罪と死、陥罪(かんざい)とその結果について、「堕落とその結果について正教会は、人間は神の像をかろうじて保持しているばかりではなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解し、人間の選択の自由の能力は堕落によって傷つき限界はあるが、決して絶滅されはいない。堕落の状態にあって人間の意志は病んでいるが死んではいない。健康な時よりはるかに困難だが、人間は依然として善を選択することができる。」と主張している。聖母マリアについては、「彼女が一切の個人的な罪から自由であったという意味で、”至聖なる者”と信じる一方で、正教会は、旧約時代のっすべての聖なる人々と同じくマリアもまた原罪の結果の下に服していたと考える。」としており、カトリックのようなマリアの無原罪という神学思想を採用せず、マリアは特別な人間ではなく、真の人間として生きた、ごく普通の人間が信仰生活(エルサレムの神殿付属の女子校に入り、聖にせられし他の器となるべく素晴らしい努力を重ね、純真・潔浄の生活を過ごした。)によって至聖なる救いの境地を指し示し、そこに到達したと、考えられている。

と、ここまで読んできたのだが、聖母マリアの原罪云々もそうだが、正教会の原罪論が強く印象に残った。直感的なものだが、前述の佐藤優氏の指摘は、正教会はヨハネの福音書を重視している、というものである。ヨハネの福音書は、有名な「はじめにロゴスありき」で始まる。ロゴスは、言葉と訳されたりもするが、明快なるロジック、あるいは理性をも意味する。正教会の、原罪はあるものの、人間の善悪の判断は可能という、このことが関係あるのではないかと感じたのだ。中田考氏は、キリスト教神学では、善悪を中心においていると批判していることも想起させる。こういう疑問とイメージを大切にしながら、続けて読んでいこうと思う。

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