幾分保守的なスイス人の牧師の家に生まれたバルトは、若い頃、自由主義神学に惹かれるが、社会主義運動の高揚やWWⅠの反戦思想、さらには反ナチズムによって、それらを超克し自らの神学、弁証法神学を積み上げていったことは十分理解できた。常に原点に戻り、弁証法的なテーゼとアンチテーゼの間に立って、ジンテーゼを見つけようと努力する姿勢こそ弁証法神学の意味であると理解している。ただ、このテーゼもアンチテーゼもジンテーゼも、全てが神=イエス・キリストの啓示であり、人間が理性的に言語を使い形成するような神学ではない、また現実に起こっていることが神啓示でもある、というのだが、これが私には理解できないところなのである。
答えのない論争を神学論争などと揶揄することがあるが、たしかに神学は、極めて形而上的な論議のような気がする。もう一度読み返すべきか、とりあえず教養として蓄積しておくべきか、実に悩むところである。
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