2024年5月22日水曜日

大シスマの背景と大意

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「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)には、相違点についても詳しい記述がある。倫理の授業で、相違点を上げる時、教会組織から見て最も顕著なのがカトリックの教皇の存在である。正教会には教会のトップである教皇は存在しない。

前述の381年のコンスタンティノープル第二聖全地公会で、「コンスタンティノープルの主教はローマの主教に次いで名誉の特典を有する。なぜならこの都市は新しいローマだからである。」と公会規則の3条に記された。さらに、ストゥディウオスの聖テオドロス(759-826)は、「第一位ローマ、第二位コンスタンティノープル、以下アレクサンドリア、アンティオキア、エルレレムの五総主教座のいち付を確認したうえで、これが教会における五頭制(ペンタコリュポス)の権威である。これらの総主教は神的な教義に関わる管轄権を持っている。」とし、ローマへの尊敬を認めながらも、五総主教座の権威の平等性を謳っている。

たしかにローマ司教はペテロの後継者としてその位は「使徒座」と言われ、後の正教会側も上記のように特別な地位と立場を認め尊敬してきた。ローマの総主教が、ペテロの「天国の鍵」の継承者の代表的な一人だと主張してもそれほど問題はない。ただし、唯一無二の教皇権、首位権を主張するところに問題が発生する。教皇の無謬性も同様で、正教会にあっては総主教といえど過ちを犯せば審問(教会裁判)にかけられ、ロシア正教会では実際に例がある。正教会では、ペテロ・ヨハネ・ヤコブ・アンデレの四使徒はイエスの全事業の活ける証者としたうえで、十二使徒は同格、序列のつけようがないとしており、これが正教会の指導者・使徒についての基本姿勢で、総主教についても序列はあっても、その職ものは平等であるという認識である。

さて、何故カトリックと正教会は分離(大シスマ)したのか。コンスタンティヌス帝(在位306-337年)はキリスト教を公認し、330年に首都をコンスタンティノープルに移転し、初期キリスト教史最大の異端「アリウス派」(前述:昨日のブログ参照)の問題にも積極的に関与、(これもすでに何度か登場している)第1回のニケア公会議を招集し異端排除した。

以後325年から787年まで7回の公会議が開催され、前述の三位一体論の確立(第2回)、ネトリウス派(イエスの神性と人性を分離を強調する宗派、中国では景教)の異端排除(第3回)、イエスの神性と人性の二性具有の明示と単性論(イエスの人格は人性が神性に取り入れられ単一の性とする主義)の排除(第4回)、オリゲネス主義(古代の神学者オリゲネスの思想の一部を重視した3人の思想=三章問題)を排除(第5回)、イエスに2つの意思と作用があることを明示、単意論(イエスにはただ1つの意思があるという説)を排除(第6回)、聖像破壊論・イコノクラスムを排除・沈静化、イエスの受肉の奥義を明示(第7回)と続いた。正教会は、ローマ帝国内の五総主教らを皇帝が招集した、この7回の公会議だけを認めているが、カトリックは、教皇のもと継続して公会議を開けると主張し、以後合計21回の公会議を開催した。

この歴史的背景には、ゲルマン民族の大移動がある。東ローマ帝国は持ちこたえたものの、西ローマ帝国は476年に異民族に支配された。ローマの総主教と信徒はこの過酷な現状の中、彼らを改宗させ教会を維持していくが、この頃から教皇権を主張し始める。しかも6世紀のユスティニアヌス帝時に一時的にローマ帝国が領土を再統一するも、すでに西はラテン語、東はギリシア語圏となっており、西欧人は東をギリシア人の帝国と軽んじる傾向にあった。800年にはフランク王国のカール大帝に戴冠式を行い、ローマ教皇が唯一特別な首位権と神授権をもつと公然と宣言した。1054年、教皇の特使がコンスタンティノープルの総主教に破門状を手渡した。これがシスマの始まりという人もいるが、著者は5世紀以降、徐々に乖離が深まっていったのだとしている。

というわけで、他の総主教からも一目置かれていたローマが、首位権を発動した教皇という存在と、その背景にある西ローマ帝国滅亡の困難が大シスマを引き起こしたわけである。

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