2024年5月10日金曜日

バルト神学とプレモダン

「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)を読み終えてから、何度も最終章を読んだ。そこには、現代神学が、19世紀の子であるバルトに、新たな可能性を見出していることが描かれているのだが、英語圏では、新正統主義派と呼ばれる人々が現れているようだ。ただ、著者は新正統主義派に対して、バルトの弁証法的な部分が削ぎ落とされてしまっていると批判的である。私が、面白いなと思ったのは、もうひとつのポストモダン派である。

バルト神学初期の、神を「絶対他者」とする主題と、ポストモダンの結びつきである。有限な人間には無限なる神を、一つの言語的文脈という限られた文化的状況の範囲内で描写することは全く不可能であるということ、いわんや特定の文脈のうちに閉じ込められた特異な神学体系によって描写することが不可能であるということをポストモダン派は主張する。ウォルター・ロウ、グレアム・ウォードの2人は、デリダとの親和性を引き出そうとした。

ロウは、バルト神学前期の「ロマ書講解」の第二版の、神の問題および神と世界の関係についての問題が最終的に決着がつく問題であると考えるような人間の神学的自己満足の全てに疑問符を附したバルトに、デリダの著作を援用して、教会の神観念が基本的にあいまいであったという歴史的現実を明確に証明する形而上学を展開しようとした。ロウは、デリダは相対主義的ニヒリストではなく、多くの人が、ポストモダン思想(=ポスト構造主義)自体が真理を最終的に放棄すべきものと捉えていることを批判し、真理問題は捨て去られるものでも、また捨て去ることができるものでもないと主張し、むしろ人間の有限な条件の文脈的性質に照らして、問い直される必要があるとしている。

ウォードは、後期の「教会教義学」で語られる、現実に直接的に迫るためには人間の言語が不十分であるとの知覚によって作り出された神学に対するバルトの挑戦を重視する。この「表象の危機」という概念こそバルトが取り組まざるを得なかった問題であり、神の言葉がどのようにして人間の言葉によって表現にもたらされるかという問題だといっていい。バルトは神学的言語の問題について解決しようと試みたが進むべき道を示したにすぎないとする。で、ここでデリダの哲学的補足を求める。この両者を組み合わせることで、神の言葉と人間の言葉のポストモダン的な神学を展開させることが可能とし、有限な人間が神について本当に知る事ができるのは神の根本的被蔽性および負荷知性であるとした。神の根本的他者性をこのように強調することは、神学的任務の理解を大きく変えることを要求しているといえるわけだ。

…たしかに、デリダの差異や再構築の理論はバルト神学に親和性がある。ポストモダンの時代に、このような視点で新たな神学の可能性を2人は開こうとしてるわけで、なかなか面白いと思ったのである。

もちろん私の理解はかなり浅いものであるに違いない。前述したが、ブディストの私にはまだバルト神学の根本である「啓示」(=神の言葉)がよくわからない。縁起(原因と結果)の存在しない一神教の理解は神への信仰なしには解らないのかもしれないと、つくづく思った次第。(本日の画像は、バルトとデリダの両者について並立して書かれた書籍にしてみた。)

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