2024年5月31日金曜日

生憎の天候の中、球技大会

https://www.ac-illust.com/main/
search_result.php?search_word
曇り時々雨という生憎の天候だったが、学院の校内球技大会が開かれた。途中で雨で中断した場合に備えて私も登校していたのだが、結局無事に開催できたのだった。

3年生は全員教えているので、会場で会うたび、「見に来てくれたんですか。」と喜んでもらえた。こういうイベントでは授業とはまた違う顔を生徒諸君は見せてくれる。それがまた嬉しい。バレーボールやバスケットボールと行った球技大会でもメジャーな競技もあったけれど、特に女子のキックベースボールが面白かった。三角ベースでピッチャーが転がすボールを蹴り飛ばすのだが、ソフトボール部の子が、見事なキックを見せて外野へ大飛球。見事ランニングホールランを見せてくれた。ヤンヤやんやの大喝采である。

元女子校である学院では、まだまだ少数派の男子は、ドッジボールで本気で戦っていた。黄色い声援があったりして、テンションがかなり上がるのだろう。(笑)2度ほど見ていた私に当たりそうになったが、最初はキックで、二度目は見事にかわした。(笑)なかなかのスピードとパワーである。後で、生徒が謝りに来たのだけれど、故意ではないし、そういう場所で見ていた私もリスク覚悟で見ているので、全くノープロブレムである。いやあ、楽しかった。

2024年5月30日木曜日

地理と政経のバッティング

缶コーヒーの画像はなかったので…。https://www.makuake.com/project/kaffa-coffee/
地理総合の総合進学コースでは、系統地理の農業をやっている。昨日、非常に珍しいことが起こった。あるクラスで、農業はビジネスであるという話で、100円のコーヒー缶のうち、コーヒー豆を生産している農家の取り分の話をしていたら、変に無茶苦茶盛り上がったのだ。そんな面白い話ではないのだが…。聞くと、ちょうど政経の授業で、全く同じ話が出てきたのだという。

1次産業より、2次産業、さらに3次産業のほうがはるかに儲かるという例なのだが、極めて同時のタイミング、もっというとバッティングしてしまったのである。(笑)政経の担当者の先生の見識は大したものだと思う。この1次・2次・3次産業の構造は、途上国と先進国、あるいは地方と都市の経済的格差の根本であり、社会科学的に極めて重要だからである。二度聞いた生徒は幸せだといえるだろう。(笑)

2024年5月29日水曜日

フーコーを読む。

学院の図書館で昨日借りた本の1冊は、「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)である。昨日エントリーしたアフリカ哲学への招待の中でも、フーコーとの関わりが出てきた。フーコーは様々な側面を持ったポスト構造主義の哲学者である。今日から読み出したので、まだまだ読み進んでいないのだが、この本は、フーコーの死の場面から始まっている。

1984年、『狂気の歴史』で度々論及した病院で死去したフーコーが運び出された時、多くの知人・友人の見送りを受けた。これが実質のパリでの葬儀となった。とはいえ正式なものではないので祈祷は行われず、最後の著作『快楽の用法』から、その一部が朗読された。朗読者はドゥルーズであった。

「哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、他のように考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか。哲学的な言説には、自らに疎遠な知に関して修練を積むことで、それ自身の思考のうちで何が変わりうるのかを開拓する固有の権能がある。この試み―自分自身の変容のための試練という意味であって、他者を単純化して自己に同化するという意味に解されてはならないーこそ、哲学の生きた身体であり、少なくとも、哲学がかつてあったように依然として今もあるとすれば、思考における、いわば修練、自己自身の鍛錬である…。」

この本の副題は、「他のように考え、そして生きるために」である。難解な文章であるが、実に魅力的なコトバである。じっくりと読んで、そのエッセンスをまたエントリーしていきたいと思っっている。

2024年5月28日火曜日

アフリカ哲学への招待

https://webgenron.com/articles/article20240527_01
中間考査の採点がひとまず落ち着いたので、学院の図書館で哲学の本を2冊借りてきた。この書評はまた後日にするとして、帰宅後たまたまネットで、「アフリカの哲学への招待ー他者の哲学から関係の哲学へ」(中村隆之/前・後編)という記事を読んだ。ものすごく端的にまとめてしまうと、前編では、欧州の人間による他者からみた人類学的な民族哲学の紹介から始まったアフリカ哲学とその批判の系譜が語られ、後編は、奴隷貿易によるカリブ海や北米にディアスポラしたアフリカ系の人々の関係性を問いかける哲学の新たな構築について語られている。

アフリカを愛してやまない倫理の教師である私としては、実に興味深い記事だった。ここに登場する邦訳された書籍も是非読みたいと思っている。幸い、今回借りてきた哲学とは関係が深いようだ。まずは、そこから、というつもりである。

…アフリカの哲学というと、私がまず浮かぶのは、利己的な個人主義ではない、どちらかというと集団主義的な社会思想かなと思う。ケニアのハランべ―(助け合い)もそうだし、情の経済もそうだ。血縁や地縁のギブ アンド テイクの親密な関係が極めて濃い。土地についても、個人ではなく村の所有であって、村長は管理者。たとえば未亡人が出来したら、村として土地を分け与えて、生業を助けるのが当然といった感じである。この裏には利己的なスタンスに対しては、呪術的な報復への恐れのようなものも存在する。意外に日本人には理解しやすい。また以前、京大の公開講座では、在来知という概念を教えてもらった。アフリカから学ぶことは多いと私はずっと考えている。こういうジャンルがあることを知って、新たな知への探求を進めたいと思った次第。

2024年5月27日月曜日

Googleのクラスルーム

https://www.meisei.ac.jp/es/information/2020/0521.html
教師になって44年。初めて、考査直後の授業で答案を返さなかった。パソコンでの採点結果は、再確認した後に午後に入ってから、M先生の指導のもと、Googleのクラスルーム(画像参照こんな感じの画面:学園では教科として地理総合のクラスルームを作成している。昨年までの学園では各クラスごとだった。)というアプリに連動して送信した。PDFで各人の答案もデータとしてPCに保存したが、なんか変な感じである。

3コマの授業と、考査のPC処理で疲れ切った1日だった。やはり新しいことに挑戦するのは骨が折れる。(笑)だが、自らを変えていかないと成長もない。昨年までの学園では、優秀な生徒に対応するため、教科指導で様々な新しい取り組みをしたが、ICTシステムには全く手が出なかった。(笑)学院では、まずこういったICTシステムに挑戦することが重要だと覚悟を決めたのだった。

マレーシアや四国にいっているうちに、学校現場は大きく変化していた。時代の速さとICTの変化を実感した中間考査だった。次回の期末考査は、できるだけM先生に迷惑をかけないようにがんばろうと思う次第。

2024年5月26日日曜日

採点を終えて、教材研究。

http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-africa/archives/3254510.html
採点を終えて、今日は、次の授業の用意をしていた。総合・看護コースの5クラスは、気候区分の学習から農業に入る。国公立の特進コースは、教科書に従って大地形から小地形。全く別の流れでやっているの2教科教えている感じである。

地理は、三崎高校の非常勤をさせてもらって、まず、たった2人の理系組を2年連続で、5人の理系組を1年間教えて以来である。やはり、理系には地理が向いている。国名や地名は当然覚えなければならないが、これは化学の元素記号と同じ。ゆとり教育もいいし、思考能力の重視もいいが、小中学校でその辺の地名の基礎はおさえてもらわないと、高校の現場はどこも大変である。(笑)

さて、罷業は3つのテーゼを用意した。阪大の佐藤教授の「地理総合」にあった「乾燥と戦う農業」と「雑草と戦う農業」、それと私のオリジナルである「農業はビジネスである」。乾燥と戦う農業は、BW・BSといった乾燥帯とCs(地中海気候)、それに冷帯のDf・Dwまでが含まれる。北西ヨーロッパのCfb(西岸海洋性気候)は中間なのだが、どちらかといえば乾燥と戦う罷業に入る。なかなかおもしろい視点だ。

ちなみに、「農業はビジネスである」といいながらも、遊牧は、ビジネスから最も遠い農業である。京大公開講座でのアフリカの学びで、焼畑農業とともに私は詳しい。ケニアなんぞでも昔教科書で区分されていた自営的農業は今も存在するけれど、余剰分は現金にかえる(国道沿いにそういう屋台のお店をしょっちゅう見た。)し、遊牧でさえ、余剰の家畜は市に出されている。ただビジネス(商業的農業と言い換えても良い)から、最もこの2つは遠い。

地形の方は、農業ほどおもしろくはない。(笑)大地形では、プレートテクトニクスの話や安定陸塊なんかを語ることになるが、これも地名がわんさか出てくる。今回の中間考査でヨーロッパの国名はマスター出来たと思うので、ギャオのあるアイスランドくらいはわかると思う。(笑)

明日は、午後からパソコンによる採点業務の最終段階に入る。またドライアイになりそうだ。(笑)

2024年5月25日土曜日

カトリックと正教会の相違考

https://web-mu.jp/history/6268/
「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)のエントリーも、そろそろ大詰めである。今日は、比較的細かな相違の話。

有名どころでは、聖像の問題がある。カトリックでは三次元の聖像も二次元の聖画もOKだが、正教会ではイコンという二次元のみである。ちなみに、正教会ではこのイコンを聖像と呼んでいるのでややこしい。教会の十字架にイエス像がついている場合はレリーフなのでOKらしい。2.5次元の聖像というわけである。

もう一つの有名どころは、十字のきり方で、カトリックは胸の左から右に切るが、正教会は反対に右からきる。著者によると、聖書の記述などから右が重要視されているがゆえで、カトリックはどこかで間違ったのだろうとしている。ちなみに、正教会は十字をきる時の手で親指・人差し指・中指の3本をまとめるのは三位一体(=至聖三者)を、丸めた薬指と小指はイエスの神性と人性を表し、厳格に守っているとのこと。(さらに右の重視に関わって、カトリックでは結婚指輪を左にはめるが、正教会では右とのこと。徹底している感が強い。)

天国と地獄観も相違がある。カトリックでは煉獄がある。小さな罪の汚れのある者が天国に入る前に清められる場所であるが、正教会はその存在自体を否定している。天国に行くか地獄に落ちるかは神の意思であり、教会の免責の行き過ぎた拡大解釈の代表例が免罪符(贖宥状)である。正教会は罪のゆるしは、神の意志に委ねて祈るしかないとしている。

極めて細かい相違の話。聖職者の髪の毛で、正教会では長髪とヒゲを伸ばしている。旧約の士師記に登場するサムソンが神に誓願をかけた人間として登場するところから来ているらしい。私の正教会の神父のイメージは、著者に誠に申し訳ない気もするが、ラスプーチン(画像参照)である。(笑)カトリックでは、もう禁止されているらしいが、トンスラという剃髪のイメージである。この差は長い両者の対立・対抗意識が生んだものであるらしい。

意外に興味深い話だったのが、両者の破門について。異端の宗派については、前述したので、芸術家はどうか、という内容が面白かった。たとえば、神曲の中で当時の教皇やコンシタンティヌス帝などの悪口を書きまくったダンテは破門されていない。飲む打つ買うで借金漬けになったドストエフスキーは破門されていない。「沈黙」を書いた遠藤周作もセーフ。意外だが、正教会に破門されたのは、トルストイ。正教会を否定し、自ら信ずる信仰、神を被歴し自分の考えた聖書を他者に押し付けたらしい。作品とはかなり異なる傲慢な人物だった故か。さらに破門について少し調べてみたら、カトリックの場合、国王が無茶苦茶多い。ハインリヒ4世やヘンリー8世等は超有名だが、ナポレオン1世やジョン王などその他にもいっぱいいる。現代史では、キューバのカストロも破門されていた。宗教改革のヤン・フスやマルチン・ルターも当然含まれている。ちなみにジャンヌダルクは、異端審問にかかり火刑にされたが、後に列聖されている珍しい例。

…この「オーソドックスとカトリック」は、正教会側からの著作なので、カトリック批判がどうしても強くなる。そのデメリットを差し引いても、実に興味深い一冊であった。

2024年5月24日金曜日

ドライアイな一日

https://www.irasutoya.com/
2020/08/blog-post_46.html
朝からまたまたJRが車両の異常音で遅延して、ずっと立ったままだった。雇用を減らして経営の合理化もいいが、少なくとも車両のメンテナンスの人員を削減するのはやめてほしい。このところ、そういう遅延が多くなっている。JR西日本の幹部は猛省すべきであると思う。…ブツブツ。相変わらず車掌は、おわび=0円で何度も何度もアナウンスを入れてくる。…ブツブツ。

さて、今日は学院で初めての定期考査で、7クラス分の答案が返ってきた。総合コースと看護コースについては、初めてPCを使った採点を行った。本当に親切な若いM先生のご指導のもと、答案をスキャンして採点を開始した。慣れるときっと画期的に早いと思う。が、最初だし、戸惑いもあってなかなか進まなかった。最後の方は根を詰めて採点をしていたので、ドライアイもいいところである。(笑)

結局、12:30くらいに始めて、17時すぎまでかかってしまった。(それでも5クラス分であるので画期的に早い)この結果を生徒にgoogleのクラスルームでそれぞれ送るのだが、月曜日の午後までその作業は繰越することに。授業で一人ずつ返却しないので、学院では問題ないらしい。ちなみに、特進コースの2クラスは20人前後✕2なので、事実上1クラス。この土日でアナログで採点する予定。

慣れれば、かなり採点地獄から開放されることがわかった。とはいえ、もうすこし余裕を持ってやっていきたいと思ったドライアイな1日だった。

2024年5月23日木曜日

ケニアのシードボール

このところ、カトリックとオーソドックスの神学的な話が続いているが、ちょっと休憩。妻が探し出してきた「ケニアの黒い玉」のYouTubeが実に面白い。ちょうど中間考査後は農業の話をする予定なのでグッドタイミングである。この話、文章化するより直接映像を見るほうが絶対わかりやすいので、ブログに初めて動画挿入してみた。まず見ていただきたい。

この黒い玉、シードボールというらしいが、中身はアカシアの種である。阪大の佐藤先生の「地理総合」の参考書(4月2日付ブログ参照)には、「乾燥と戦う農業と雑草と戦う農業」というテーゼが出てくる。水収支(降水量と蒸発量の収支)やド=マルトンヌの乾燥指数などが載っていて無茶苦茶わかりやすい。ケニアは、Aw(サバナ気候:冬の降水量が少なく乾季となり、乾燥と戦う農業の方に分類される。)で、しかもこのところは干ばつが多い。その対策として、このシードボールがまかれているわけだ。中にはいっているのはアカシアの種。NATIONAL GEOGRAPHICのNEWS「アカシアがアフリカの農地を救う」という記事が参考になる。アカシアは、雨季が始まると休眠状態になり、作物の植え付け機に窒素を多く含んだ葉を落とし、根を広げ土壌侵食を防ぐ。もちろん燃料や建設用の木材としても有用である。https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1633/

この記事を見ると、シードボールを開発したのは、ナイロビに拠点を置くWorld Agroforestry Centerであるようだ。野生動物に食べられることなく、植林できるアイデアも素晴らしい。このアカシアの種を取り巻いている物質は何なのだろう。実に興味深いところだ。頑張れケニア、頑張れアフリカ。

2024年5月22日水曜日

大シスマの背景と大意

https://www.tarihiolaylar.com/sozluk/index.php?sayfa=konu&sayfaId=1215
「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)には、相違点についても詳しい記述がある。倫理の授業で、相違点を上げる時、教会組織から見て最も顕著なのがカトリックの教皇の存在である。正教会には教会のトップである教皇は存在しない。

前述の381年のコンスタンティノープル第二聖全地公会で、「コンスタンティノープルの主教はローマの主教に次いで名誉の特典を有する。なぜならこの都市は新しいローマだからである。」と公会規則の3条に記された。さらに、ストゥディウオスの聖テオドロス(759-826)は、「第一位ローマ、第二位コンスタンティノープル、以下アレクサンドリア、アンティオキア、エルレレムの五総主教座のいち付を確認したうえで、これが教会における五頭制(ペンタコリュポス)の権威である。これらの総主教は神的な教義に関わる管轄権を持っている。」とし、ローマへの尊敬を認めながらも、五総主教座の権威の平等性を謳っている。

たしかにローマ司教はペテロの後継者としてその位は「使徒座」と言われ、後の正教会側も上記のように特別な地位と立場を認め尊敬してきた。ローマの総主教が、ペテロの「天国の鍵」の継承者の代表的な一人だと主張してもそれほど問題はない。ただし、唯一無二の教皇権、首位権を主張するところに問題が発生する。教皇の無謬性も同様で、正教会にあっては総主教といえど過ちを犯せば審問(教会裁判)にかけられ、ロシア正教会では実際に例がある。正教会では、ペテロ・ヨハネ・ヤコブ・アンデレの四使徒はイエスの全事業の活ける証者としたうえで、十二使徒は同格、序列のつけようがないとしており、これが正教会の指導者・使徒についての基本姿勢で、総主教についても序列はあっても、その職ものは平等であるという認識である。

さて、何故カトリックと正教会は分離(大シスマ)したのか。コンスタンティヌス帝(在位306-337年)はキリスト教を公認し、330年に首都をコンスタンティノープルに移転し、初期キリスト教史最大の異端「アリウス派」(前述:昨日のブログ参照)の問題にも積極的に関与、(これもすでに何度か登場している)第1回のニケア公会議を招集し異端排除した。

以後325年から787年まで7回の公会議が開催され、前述の三位一体論の確立(第2回)、ネトリウス派(イエスの神性と人性を分離を強調する宗派、中国では景教)の異端排除(第3回)、イエスの神性と人性の二性具有の明示と単性論(イエスの人格は人性が神性に取り入れられ単一の性とする主義)の排除(第4回)、オリゲネス主義(古代の神学者オリゲネスの思想の一部を重視した3人の思想=三章問題)を排除(第5回)、イエスに2つの意思と作用があることを明示、単意論(イエスにはただ1つの意思があるという説)を排除(第6回)、聖像破壊論・イコノクラスムを排除・沈静化、イエスの受肉の奥義を明示(第7回)と続いた。正教会は、ローマ帝国内の五総主教らを皇帝が招集した、この7回の公会議だけを認めているが、カトリックは、教皇のもと継続して公会議を開けると主張し、以後合計21回の公会議を開催した。

この歴史的背景には、ゲルマン民族の大移動がある。東ローマ帝国は持ちこたえたものの、西ローマ帝国は476年に異民族に支配された。ローマの総主教と信徒はこの過酷な現状の中、彼らを改宗させ教会を維持していくが、この頃から教皇権を主張し始める。しかも6世紀のユスティニアヌス帝時に一時的にローマ帝国が領土を再統一するも、すでに西はラテン語、東はギリシア語圏となっており、西欧人は東をギリシア人の帝国と軽んじる傾向にあった。800年にはフランク王国のカール大帝に戴冠式を行い、ローマ教皇が唯一特別な首位権と神授権をもつと公然と宣言した。1054年、教皇の特使がコンスタンティノープルの総主教に破門状を手渡した。これがシスマの始まりという人もいるが、著者は5世紀以降、徐々に乖離が深まっていったのだとしている。

というわけで、他の総主教からも一目置かれていたローマが、首位権を発動した教皇という存在と、その背景にある西ローマ帝国滅亡の困難が大シスマを引き起こしたわけである。

2024年5月21日火曜日

フィリオクェ問題

https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/337.html
以前エントリーしたことがあるが、カトリックと正教会では、三位一体論における聖霊について大きな相違点がある。神とイエス両方から発せられるというカトリックに対して、正教会は神のみから発する、としている。これはかなり大きな違いであり、大シスマ(東西分裂)の主因ともなっている。「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)では、この問題(フィリオクェ:ラテン語でFilioque「また子より」を意味する。)について詳しく書かれている。

381年のニケア・コンスタンチノープル公会議(第ニ回公会議:三位一体=至聖三者論が確立)で採択された時、聖霊は神からのみ発するとされたのだが、スペインのトレドあたりの人達が、イエスからも聖霊が発せられると言い出し、これを聞きつけたビザンチン側が信条にないことなので、唱えないようにローマ教皇に訴えた。教皇もそれを禁じようとしたが、一般の人が唱えだし、ついにはフランク王国が認めるようにローマに圧力をかけてきた。この裏には、ローマ教会のアレイオス主義(ギリシア哲学の思弁にのっとり、神の絶対性を主張し、イエスは神の子であっても、神の被造物であり同等ではない、とする。325年の第1回ニケア公会議で異端として排除された宗派。)に対する警戒心があり、当時フランク王国がそれの防波堤という役割を果たしていたので、フランク王国の言い分を容認せざるを得なかったという歴史的背景があったようだ。

この論理展開は、アウグスティヌス(354ー430)から始まっているようで、カトリックではアウグスティヌスは「聖人」に列せられているのに、正教会では一段下の「福者」である。(この問題と関係しているのではないか、と私は思う。)ちなみに正教会は分離後のカトリックの聖人を認めていない。また政教分離に重きを置くカトリックは、正教会と違い、政治的立場にある旧約のダビデやソロモン、国教化を図ったコンスタンティヌスなどを聖人には加えないという違いもある。

フィリオクェに話を戻すと、第三者&ブディストである私からみても、どうも正教会の方が正論であると思われる。実際、カトリックの教義を受け入れてきた聖公会(イギリス国教会)も正教会側の主張に同意しているようだ。(下記URLはその記事)ただ、ローマカトリック側にもいろいろと事情がある。次回はそんなメタな立場から大シスマについて考察してみようと思う。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/24754/20171110/anglicans-oriental-orthodox-agree-doctrine-holy-spirit.htm

2024年5月20日月曜日

クリスマスよりイースター

https://mitosya.blog.fc2.com/blog-entry-2556.html
「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)から、興味深い箇所を拾うエントリー。聖母マリアの話が続いたが、今日は、類似点と相違点の核心的部分について。カトリックと正教会の両者で最も大切な行事は、復活祭(=イースター、聖大パスハ、正教会では復活大祭)であるとのこと。

カトリックは、全典礼暦の頂点として、イエスの受難と復活からなる過越(すぎこし:旧約の出エジプト記に記録されている神の過越を意味するパスハから来ている)の聖なる3日間が輝きを放っている、としているが、実際にはクリスマス(正教会では降誕祭と称している)を中心に典礼暦を中心に編成されている。正教会は、復活大祭を中心に典礼暦を組んでいる。この辺が類似点でもあり、相違点である。

さて、ここからが今日の核心部。何度か前述しているヨハネの福音書(画像参照)の冒頭、「はじめにロゴスありき」の深淵な箇所を、カトリックではクリスマス(=降誕祭)の日中のミサの聖体拝領(正教会では聖体礼儀)の時に朗読し、イエスの降誕(=言葉の受肉)に焦点を当てている。正教会では、復活大祭のユーカリスト(正教会ではミサという語は使わない。)・聖体礼儀の時に朗読し、罪の赦しと復活・新たな生命に焦点を当てている。

この違いの深い意味は、ブディストの私としては、どう理解すればいいのか迷うところ。少なくとも、イースター(復活大祭)が両者ともに最重要な典礼であるというスタンスで見れば、正教会はヨハネの福音書の冒頭を最重要視していると見ても良いと思われる。カトリックは、事実上クリスマスを重視しているので、この時にヨハネ福音書を朗読している、ともとれる。この辺、また宗教科の先生に質問してみようと思う。ただ、正教会のほうがストレートであることは間違いなさそうだし、前述の原罪論の相違(16日のブログ参照)と合わせて、佐藤優氏の「正教会がヨハネの福音書を重視している。」という視点は、これで証明されているように思う。

2024年5月19日日曜日

アヴェ・マリアと生神女の讃詞

https://4travel.jp/travelogue/11570895
「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)から、興味深い箇所を拾うエントリーの続きである。正教会の教会用語は、ギリシア語とかスラブ語の翻訳なので、難解な語彙が多い。

聖母は、生神女(しょうしんじょ:ギリシア語の訳語)となる。カトリックではルカ福音書の天使祝詞(ラテン語で、アヴェ・マリア)を唱えるが、正教会でも同様の讃詞(トラバリ)がある。もちろん文言は異なる。両者の祈りの輪郭は少し違う。カトリックは、神に祝福されたマリアを讃えながら罪人である信仰者を導く「仲保者」(ちゅうほしゃ:執り成しをする聖母)としてのマリアを、正教会は、救世主が生まれ我々と共にいる喜び、救いを祈り求める神の母を強調し、救われる喜び、救いに入る歓喜の顕現こそマリアである。正教会では、執り成しを「転達」とも言う。また、受胎告知を正教会では「生神女福音」と呼び、マリアは神の救いを世にもたらす福音の扉、「天の門」そして生命の養育者としている。

…以前、何故聖母マリア=生神母への信仰を、カトリックや正教会は重視するのかという点で、上記の執り成し=転達という概念があるからというのが答えだった。ブディストの私からからすると、神に対してなぜ遠回りするのか、少しわかりにくい。倫理でキルケーゴールの単独者などの概念を教えているからかもしれない。

ちなみに、正教会では、イエスの墓に香油を携えてきた女性を携香女(けいこうにょ)と呼び、中でもマグダラのマリアを聖使徒に等しい者=亜使徒と称するとのこと。…つづく。

小学校の同窓会

幹事のO君が所持していた当時のクラス写真
小学校のクラス同窓会が昨日あって、3次会まで参加してきた。5年・6年と担任をしていただいたN先生の喜寿のお祝い(コロナのこともあって1年先延ばされたらしい)である。先生は、新任で我々の担任となったので年齢差は10年ほど。66歳になった我々と比べてもあまり変わらないどころか、最もお元気そうである。(笑)小学校の同窓会が、今だに存続していることがすごいと思うのだが、やはり、幹事役となってくれている友人の努力に負うところが大きい。まるで、(関西で放送しているTV番組の)探偵ナイトスクープの如く、友人の連絡先を探してくれたようだ。かくゆう私も携帯というかスマホもマレーシアに行ってから2度変わっているし、メールも変わっていたのだが、大阪の自宅に帰ってきたゆえに固定電話でキャッチされたわけだ。(笑)今回の同窓会では、LINEのグループが結成された。みんなデジタルデバイドで、結局税理士をやっているS君がなんとか完成させてくれたのだった。(笑)

中国の上海に25年も行っていたというS君も、探偵に捜索された1人らしい。(笑)中国本土のビジネス事情を詳しく聞けたし、オーディオが趣味らしく、ベートーヴェンは5番の第三&第四楽章が良いという点で一致した。小学校時代はそんなに仲は良くなかったのだが、大人になって大いに語り合えたのが嬉しい。意外に話が繋がっていって面白かったので、あまり酒は強くないのだが、3次会まで付き合ってしまった次第。ついていけないのはゴルフの話ぐらいである。(笑)一般企業に勤めていた友人たちは、やはりゴルフをやっているようで、教師の世界とはまた違うし、そこがまた話を聞いていて面白い。

離婚した友人も少なからずいて、人生いろいろなんだなあと痛感した。他のクラスの友人の名前も出てきたが、すでに鬼籍に入った友人の名もも多く挙がった。意外な名前もあって、地元から離れて長い私としてはかなりショックだったし、少子化で出身中学校も近隣の中学校と合併したという話にも驚いた。

帰宅したのは、午後10時を回っていた。昼過ぎに始まった同窓会なのだが、その余韻は今も残っている。

2024年5月17日金曜日

聖母祭ミサに参加してみた。

https://www.osaka-shinai.ac.jp/blog/gakuin/detail/143
カトリックでは、5月が聖母マリアの月だそうで、学院では本日6限目のLHRで、中高生が参加してミサが行われた。ブディストでありながら一倫理の教師として、折角なので勉強のために参加した。これまで、私はいろんな一神教の礼拝に参加してきた。ユダヤ教の安息日の礼拝と、プロテスタントのバプティストの日曜礼拝はニューヨークで、アルメニア正教の礼拝をエルサレムで。イスラム教の金曜礼拝は異教徒は参加できないが、普段の礼拝時には、タマンデサのモスクにおじゃましたことがある。しかしながら、意外なことにカトリックのミサは初めてである。

HPに昨年の聖母祭のミサの様子(画像参照)があったので、大体の流れは了解していた。今年の神父さんは、インドネシア(ジャワ島の出身らしい。意外だった。)の方であった。もちろん日本語で執り行われた。講堂の左右の画面に、皆で声を合わせる箇所が赤色の文字で示されて、全員が声を合わせる。立ったり座ったりが繰り返され、賛美歌は2階席(外から見ると3階にあたるのだが)でコーラス部が、なかなか美しいハーモニーでリードしていた。

聖書朗読(ルカの福音書だったと思う。天使ガブリエルによる受胎告知の場面。)や共同祈祷(世界平和や能登の地震被害者への祈り)やカトリックの洗礼を受けた生徒・先生だけに行われる聖体拝領、生徒の代表や先生の献花があった。

なるほど、カトリックのミサとはこういうものなのだ、ということがわかった。大いに勉強になったのであった。

2024年5月16日木曜日

聖母マリアとその原罪論

「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)から、興味深い箇所を拾ってみたい。カトリックもオーソドックス(長いので、以後正教会としたい。)の類似点で、著者は様々な表象・象徴を使う事を挙げている。しかしながら、有名なザビエルの聖画で、十字架が貫いている心臓を抱く姿を、正教会には見られない表象とわざわざ記している。有名な聖画だが、私は(頭のてっぺんにばかり目が行って)意外にこの心臓を見逃していた。そこで大きな疑問が湧いた。学院はザビエルのイエズス会が創設した学校で他県の姉妹校も同じ校章である。校章は、ハートの上に十字架が描かれている。この聖画と関係があるのではないか、と思ったのだ。宗教科の先生にお聞きすると、関係がないとのこと。学院のHPで確認してみたが、ハートについての記述はなかった。でも面白い一致だと思う。ちなみに、宗教の先生は、ザビエルの頭のてっぺんについて、ザビエルとは異なる不真面目な修道院の習慣で、この聖画は間違っていると、熱弁を振るわれたのだった。この話も面白い。

さて、本題。聖母マリアについて、両者とも崇拝している。カトリックは可憐な乙女のイメージが強く、正教会の方は成熟した女性として描かれている感じがするそうだ。(学院内にはマリアの聖画や像がたくさんあるが、たしかにそうだ。)カトリックでは、「無原罪の宿り」を聖母マリアの称号とし、原罪がない存在である。カトリックでは原罪とは、「人間の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、全ての人間は原罪をもって受胎し生まれる。」としている。よって、原罪とは、罪と死の人間の本姓・根源への感染、死に至る体質の遺伝と規定しているわけであるが、イエスとマリアは除外されている。

これに対して、正教会では、原罪について、人の罪と死、陥罪(かんざい)とその結果について、「堕落とその結果について正教会は、人間は神の像をかろうじて保持しているばかりではなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解し、人間の選択の自由の能力は堕落によって傷つき限界はあるが、決して絶滅されはいない。堕落の状態にあって人間の意志は病んでいるが死んではいない。健康な時よりはるかに困難だが、人間は依然として善を選択することができる。」と主張している。聖母マリアについては、「彼女が一切の個人的な罪から自由であったという意味で、”至聖なる者”と信じる一方で、正教会は、旧約時代のっすべての聖なる人々と同じくマリアもまた原罪の結果の下に服していたと考える。」としており、カトリックのようなマリアの無原罪という神学思想を採用せず、マリアは特別な人間ではなく、真の人間として生きた、ごく普通の人間が信仰生活(エルサレムの神殿付属の女子校に入り、聖にせられし他の器となるべく素晴らしい努力を重ね、純真・潔浄の生活を過ごした。)によって至聖なる救いの境地を指し示し、そこに到達したと、考えられている。

と、ここまで読んできたのだが、聖母マリアの原罪云々もそうだが、正教会の原罪論が強く印象に残った。直感的なものだが、前述の佐藤優氏の指摘は、正教会はヨハネの福音書を重視している、というものである。ヨハネの福音書は、有名な「はじめにロゴスありき」で始まる。ロゴスは、言葉と訳されたりもするが、明快なるロジック、あるいは理性をも意味する。正教会の、原罪はあるものの、人間の善悪の判断は可能という、このことが関係あるのではないかと感じたのだ。中田考氏は、キリスト教神学では、善悪を中心においていると批判していることも想起させる。こういう疑問とイメージを大切にしながら、続けて読んでいこうと思う。

2024年5月15日水曜日

オーソドックスとカトリック

学院の図書館で、「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)という本を借りてきた。前回のバルト神学に続く、キリスト教本である。学院は、カトリック、それもイエズス会の設立した学校である。宗教科の授業も週1であるし、専門の先生方(カナダ人やエクアドル人、もちろん日本人)もそこそこおられるので、折角なのでいろいろと学びたいと思っている。図書館でもキリスト教関係の書籍が豊富であるのが幸いである。とはいえ、私はあくまでブディストの立場から、比較宗教学的なスタンスをくずすわけではない。学問的興味がある、というだけなのだが…。

ところで、この本の著者は、オーソドックス(正教会)の司祭である。オーソドックスの立場からカトリックとの似ている点や相違点を書いている。ちょうど、佐藤優氏の本で、両者の相違点についていろいろと読んでいたこともあって、チョイスしたわけだ。現時点で5分の1程度読んだのだけれど本日は、導入的に両者の十字架の違いについて書いておこうと思う。

https://www.publicdomainpictures.net/jp/view-image.php?image=398052&picture=
十字架を重視するのは、オーソドックスもカトリックも同じ。だが、形状が違う。オーソドックスでは、カトリックの十字架の上に1本、下に斜めになったもう一本が付け加わっている。上の1本は、イエスが磔になったとき、その罪状(INRI:ナザレのイエス、ユダヤ人の王の頭文字/聖書では3言語で書かれていたとある。)が書かれた板であり、したのもものは、イエスが足を打ち付けられた台である。斜めになっているのは、共に十字架刑に処せられた強盗2人のうち左の者はイエスを罵り地獄に落ち、右の者(聖ディスマス)は悔い改めて天国に行ったとされている。右が上がっているのは天国を指し示しているわけで、イエスの十字架は義の秤となったのである。

少しずつ、こういった相違点を見つけては、エントリーしていこうと思う。

2024年5月14日火曜日

何故政策金利を教えないのか

https://equity.jiji.com/commentaries/2023072700083g
現在の高校・政治経済の金融政策の学習内容から、政策金利(=旧公定歩合)の内容が省かれている。公開市場操作が日本の金融政策の中心になっているからしい(実教出版の政経の教科書P137の注意書き)が、それでは、国際金融における、FRBやヨーロッパ中央銀行、イングランド銀行などの政策金利の動きの意味がわからないままである。経済学部に進めば理解が深まるだろうが、他の学部に進んだり就職する生徒にとって、高校で基礎的なロジックを教えないことに対して、私は実に不可解であると思っている。

このように思ったのは、先日地理の授業で、EUの話をしていて、ユーロ圏内の国々のひずみが生まれている原因を語ろうとすると、各国の経済状況がふぞろい(インフレ対策が必要な国もあればデフレ対策が必要な国もある)であるのに、ヨーロッパ中央銀行に政策金利を一元化している故という話になってくるからである。

YouTubeの「モハPチャンネル」は、国際経済の現状を知るうえで実に役に立つのだが、政策金利の意味がわかっていないと、ほとんど理解できないことが多い。日本ではたしかに金利自由化や、売りオペ・買いオペが中心的になったといっても、国際経済的には今も重要な金融政策の柱である。

今は、地理を教えているが、政経や倫理、そして世界史・日本史など他科目の内容をフォローすることも多い。たとえば、「エジプトはナイルの賜物」と言われる。ナイル川が自然に水かさが増え、川の周囲を肥沃にし、また水が引くことが定期的に起こることからきている。これはナイル上流の地域が、夏に降水量が多く、冬に極端に少なくなるサバナ気候であるがゆえである。このような社会科内のフォローが絶対必要である。政策金利は、政経が中心だが、地理にも大いに関係しているのである。

今だに、政策金利を教えなくなった政経の教科書は不可解だ、何を考えているのだろうか、と主張したい。

2024年5月13日月曜日

放出の「王将」に行く。

(昨日の定期券に関するブログの続きである。)結局、放出(はなてん)駅で定期を買うことになった。H高校時代以来、久しぶりの放出駅下車。折角なので、昼食は放出の「王将」にした。最近は「王将」に行くこともなかったので、ちょっと嬉しい。(ご存じない方のために:「王将」とは、京都発祥の中華料理店で、餃子が有名。京都王将と大阪王将に分かれているが、私は京都王将のほうが好みである。なんといっても京都の学生時代の帷子ノ辻店以来馴染んでいるからである。)

注文したのは、「五目ソバ」と「餃子1人前」(いつもは2人前なのだが、なんとなく1人前にした。)細麺とあっさりしたスープの五目ソバは、餃子によくマッチする。このところ何年も、ずっと五目ソバである。(笑)あまり人気メニューではないと思うが、王将での隠されたオススメメニューであると思う。

2024年5月12日日曜日

JR西日本の定期券売り場削減

https://subway.osakametro.co.jp/news/news_release/JW_hatsubai2020.php
昨年、学園に通勤するのに、河内磐船駅で定期を購入した。今日、久しぶりに定期券を買いに行ったら、もうこの駅では買えないことが判明した。まあ、私が事前に調べていないのが悪いのだが…。改めて調べてみると、学研都市線では、京橋・放出・鴻池新田・四條畷・長尾・松井山手のみになっている。昔は最寄り駅でも買えたのだが、はっきり言って人員削減によるサービス低下が甚だしい。

JR西日本はよく止まるし、遅延も多い。車掌の言葉遣いは丁寧だが、お詫び=0円という感じだし、朝居眠りをしている客が多いのに大音量でアナウンスしたりと、どうもいただけない。マクドナリぜーションは、企業経営の屋台骨になっている、このご時世だが、文句を言わない日本人気質を当然のようにして、胡座をかいている感がいがめない。

今回は、JR西日本+大阪メトロの定期券になる。イコカが1枚で済むのは大いにありがたいが…。

2024年5月11日土曜日

またまた驚きの学院との縁

https://www.facebook.com/photo/?fbid=435826098793394&set=pcb.435826658793338&locale=ja_JP
土曜日であるが、あるクラスの授業を頂いたので出勤した。授業後、管理職の先生と少し雑談していたのだが、府立高校から数年前に学院に来られたことを知った。それも有名な府立の進学校である。OBでもあり、ラグビー部と関わっておられたと聞き、小中学校の同窓生の名を出すと、なんとご存知だったし、M高校で私が生活指導部長をしていた時、大いに助けていただき、中国修学旅行でも同室させていただいたT先生も同校ラグビー部OBで、よく知っているとのこと。実に驚いた。

さらに月曜日には、教え子のGくんが、大学の准教授に出世しており、学院に大学紹介に来るというメールももらっている。だたし、残念ながら私の授業と重なっているし、他の高校へも行く予定があるらしく、今回は会えないのだが、学院の近くに居を構えているとのこと。また次に会える日を楽しみにしている。

先日のK先輩もだが、意外な縁が私と学院にあるわけだ。これは、ますます頑張らなければ、と思った次第。

2024年5月10日金曜日

バルト神学とプレモダン

「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)を読み終えてから、何度も最終章を読んだ。そこには、現代神学が、19世紀の子であるバルトに、新たな可能性を見出していることが描かれているのだが、英語圏では、新正統主義派と呼ばれる人々が現れているようだ。ただ、著者は新正統主義派に対して、バルトの弁証法的な部分が削ぎ落とされてしまっていると批判的である。私が、面白いなと思ったのは、もうひとつのポストモダン派である。

バルト神学初期の、神を「絶対他者」とする主題と、ポストモダンの結びつきである。有限な人間には無限なる神を、一つの言語的文脈という限られた文化的状況の範囲内で描写することは全く不可能であるということ、いわんや特定の文脈のうちに閉じ込められた特異な神学体系によって描写することが不可能であるということをポストモダン派は主張する。ウォルター・ロウ、グレアム・ウォードの2人は、デリダとの親和性を引き出そうとした。

ロウは、バルト神学前期の「ロマ書講解」の第二版の、神の問題および神と世界の関係についての問題が最終的に決着がつく問題であると考えるような人間の神学的自己満足の全てに疑問符を附したバルトに、デリダの著作を援用して、教会の神観念が基本的にあいまいであったという歴史的現実を明確に証明する形而上学を展開しようとした。ロウは、デリダは相対主義的ニヒリストではなく、多くの人が、ポストモダン思想(=ポスト構造主義)自体が真理を最終的に放棄すべきものと捉えていることを批判し、真理問題は捨て去られるものでも、また捨て去ることができるものでもないと主張し、むしろ人間の有限な条件の文脈的性質に照らして、問い直される必要があるとしている。

ウォードは、後期の「教会教義学」で語られる、現実に直接的に迫るためには人間の言語が不十分であるとの知覚によって作り出された神学に対するバルトの挑戦を重視する。この「表象の危機」という概念こそバルトが取り組まざるを得なかった問題であり、神の言葉がどのようにして人間の言葉によって表現にもたらされるかという問題だといっていい。バルトは神学的言語の問題について解決しようと試みたが進むべき道を示したにすぎないとする。で、ここでデリダの哲学的補足を求める。この両者を組み合わせることで、神の言葉と人間の言葉のポストモダン的な神学を展開させることが可能とし、有限な人間が神について本当に知る事ができるのは神の根本的被蔽性および負荷知性であるとした。神の根本的他者性をこのように強調することは、神学的任務の理解を大きく変えることを要求しているといえるわけだ。

…たしかに、デリダの差異や再構築の理論はバルト神学に親和性がある。ポストモダンの時代に、このような視点で新たな神学の可能性を2人は開こうとしてるわけで、なかなか面白いと思ったのである。

もちろん私の理解はかなり浅いものであるに違いない。前述したが、ブディストの私にはまだバルト神学の根本である「啓示」(=神の言葉)がよくわからない。縁起(原因と結果)の存在しない一神教の理解は神への信仰なしには解らないのかもしれないと、つくづく思った次第。(本日の画像は、バルトとデリダの両者について並立して書かれた書籍にしてみた。)

2024年5月9日木曜日

驚きのK先輩との邂逅

学院での昼休み、職員用の下足の前で声をかけられた。最初マスクをされていたので誰だかわからなかったのだが、H高校時代にお世話になった体育のK先生であった。お聞きすると、改めて情報科の教員免許を取って、学院に週2日勤務されているとか。情報科の職員室は7階なので、これまで全く気づかなかったのだった。いやあ、驚いた。やはり、学院とも縁があるようだ。私が学院にお世話になったことに、PBTや三崎高校、学園と同じように、意味があるのは間違いない。

2024年5月8日水曜日

バルトの弁証法神学

学院の図書館で借りた「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)をようやく一読しかけている。キリスト教神学(バルトはカルヴァン派)の知識が浅い私にとっては、なかなか難解である。表面的な理解はともかく、なにより、啓示というものの正体がつかめない。啓示の表面的な意味は知っている。「神が自分から進んで自身の存在や性質、思いを表すこと」であるが、ブディストである私には体験的に認識していない故に、それを理解するのが非常に難しい。

幾分保守的なスイス人の牧師の家に生まれたバルトは、若い頃、自由主義神学に惹かれるが、社会主義運動の高揚やWWⅠの反戦思想、さらには反ナチズムによって、それらを超克し自らの神学、弁証法神学を積み上げていったことは十分理解できた。常に原点に戻り、弁証法的なテーゼとアンチテーゼの間に立って、ジンテーゼを見つけようと努力する姿勢こそ弁証法神学の意味であると理解している。ただ、このテーゼもアンチテーゼもジンテーゼも、全てが神=イエス・キリストの啓示であり、人間が理性的に言語を使い形成するような神学ではない、また現実に起こっていることが神啓示でもある、というのだが、これが私には理解できないところなのである。

答えのない論争を神学論争などと揶揄することがあるが、たしかに神学は、極めて形而上的な論議のような気がする。もう一度読み返すべきか、とりあえず教養として蓄積しておくべきか、実に悩むところである。

2024年5月7日火曜日

いちご白書「が」もう一度

https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch
/%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%
94%E7%99%BD%E6%9B%B8/21600/
昔、いちご白書という文庫本を所有していた。(実際には難しすぎたのか、読みきった記憶がない。)1960年代のアメリカ・コロンビア大学での学生運動のノンフィクションで映画化もされた。日本では、バンバンが「いちご白書をもう一度」という歌を歌ってヒットした。この歌は、学生運動から足を洗って企業戦士となっていく若者を自虐的に表現した歌である。この歌には思い出があって、ある先輩が「こんな風にならないための自戒」としてカラオケで歌い上げていたことがある。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-05-07/SD39LYDWRGG000
現在、ハーバード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)で、イスラエルの戦争に対する抗議の運動が加熱している。卒業式ができなくなる事態もよそうされ、大学当局は退去しなければ停学措置も辞さないかまえであるそうだ。ちなみに、コロンビア大学では、卒業式は中止になり、NY市警が介入し、占拠していた数十人とデモ参加者など100人あまりがが逮捕されたという。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-05-07/SD39LYDWRGG000

この記事を見て、私は「いちご白書」を連想せざるを得なかった。現民主党政府は、極めてリベラルという次元を超えた左翼的な政策を打ちながら、イスラエルとウクライナを影に日向に支援している戦争屋として、軍産複合体を肥え太らせている。学生の純粋な政治への不満は、時代を超えて、また復活しているのである。

大谷選手と井上選手は日本の光

https://www3.nhk.or.jp/news/html/
20240507/k10014441951000.html
このところ、ドジャーズの大谷選手は絶好調で、ホームランやヒットを連発している。イチロー同様の打率で、長打が多いという、全く信じられない活躍である。それもリハビリ中なのであるから、まさに超人である。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1354805
一方、昨日井上尚弥選手が、前評判通り、メキシコの悪童・ネリを6回TKOした。1Rでまさかの(プロで初めての)ダウンを喫した。LIVEで見ていたら、心臓に悪かったと思うが、今朝YouTubeで勝利を知ったあと見たので問題はなかった。(笑)かなりハイテンションでボコボコにしてやろうというアクティブな姿勢が見て取れた。私はボクシングには詳しくないので、またYouTubeの「ボクシング解体新書」のネリ戦の解説がアップされたら、是非見たいと思う。

今の日本、売国奴的な政治家によって、まるで日本を滅亡させようとしているのではないか、という風にに見えるほど、どんどん悪化しているのだが、彼ら2人のアスリートの活躍(おっと、忘れてはならないサッカーやその他の競技も含めてであるが)こそが、日本の光であると思う次第。ありがとう、超人とモンスター、2人のアスリート。

2024年5月5日日曜日

シンガポール to マレーシア

https://jp.hotels.com/go/singapore/legoland-malaysia
地理総合の教科書には、様々な統計地図が掲載されていて、読み解くような工夫がされている。世界の観光客の移動状況を示した地図が掲載されていた。これを見て少し驚いた。シンガポールからマレーシアへの観光客の移動がかなり太い線で描かれていたのである。

実は私は、マレーシアに3年半滞在していたが、シンガポールには行っていない。理由は簡単で、物価がマレーシアよりはるかに高いからである。住んでいる人々も中華系が多いし、そんなに気候も風景もマレーシアと変わらないし、マーライオンその他の観光地にも全く興味がなかったのである。

ところで、シンガポールの住民がマレーシアに観光に来るのだろうか。そもそもシンガポールは、マレーシア連邦として独立し、後に離脱したので、(中華系中心だが)文化的にもほとんど変わらない。シンガポールの半島側には、ジョホールバルがある。これは私も行ってみたかったレゴランド・マレーシアがあるのだが、世界地図で示されるほどの観光客を呼ぶとは思えない。私は、ずばり買い物だと思う。前述のようにはるかにマレーシアの方が物価が安いので、国境を超え買い物に来ているのではないか。

でも移動人数はかなり多いので、統計地図に記載されているのだろう。実際に住んでみなければわからない事実である。

2024年5月4日土曜日

GWは中間考査作成週間

https://rinto.life/108211
このGWは、どこへも行かず、中間考査の試験問題と解答用紙の作成に取り組むつもりだった。特に、PCを使った採点に挑戦するので、早めにと思っているわけだ。幸い、総合コースと看護コースの5クラス分は、ケッペンの気候区分とヨーロッパの地名問題と範囲が明確であるので、コンパクトにまとめて昨日終了した。問題は、特進コースである。教科書に沿って授業を進めているのだが、まだ取り組んでいない箇所もあって、行き詰まっている。共通テスト風に、思考を求める問題を作ろうとすると、なかなか難しい。

で、結局今日は何も出来なかった。こんな時は、気分転換するにかぎる。久しぶりに妻と散歩に出かけた。「逍遙」と洒落込んだわけだが、少しずつ構想はまとまりつつある。明日は一気に進めようと思っている。GWも残り少なくなってきた。

2024年5月3日金曜日

ダチョウの話

https://infopicks.net/ostrich/
妻が、ダチョウについてのYouTuberチャンネルを見ていて、「面白いから見てみ。」と勧めてきた。こういうことはよくある。(笑)ダチョウはかなり脳が小さいらしく、(その大きな目よりも小さいらしい)メモリー機能も小さいらしい。面白いことに、それと反比例して免疫能力がすこぶる高く、また自己治癒力がめちゃくちゃ高いらしい。いろんなダチョウの画像を見ることになったのだが、その奇異さに驚くばかりだ。

ところで、ダチョウといえば、JICAでケニアに派遣された時、帰路のナイロビ空港で「ダチョウの卵」なるものを購入した経験がある。特殊な商品(野生ではなく飼育されたダチョウのものであることを断っておく。)なので、税関で申請する必要があったのだが、極めて貴重な教材なので購入した。何年かは、M高校の地理の授業で見せていたのだが、ある時生徒が卵を落として割ってしまった。本人はえらく恐縮していたが、諸行無常・諸法無我である。残念ではあるが、仕方ない。で、廃棄したのだった。(割れた卵は、かなり臭かった。笑)

長さ15cmくらいはある巨大な卵で、目玉焼きにしたら、鶏の何人分にもなるという話だったが、あまり美味しくないらしい。

2024年5月2日木曜日

遠足 飯盒炊爨&BBQ

https://www.ekiten.jp/shop_5803354/
学院の3年生は、今日が遠足で、BBQとのこと。ここ2日ほど天気が良くなかったので案じていたが、晴れてよかったと思っている。そういえば、昔(昭和)は飯盒炊爨と称していた。薪で米を炊き、カレーや野菜炒めなどをしていたのだが、今やBBQである。時代とともに贅沢になっているよなあ。(笑)

T商業高校でも、M高校でも、H高校でも担任の時に、このような遠足をした。T商業高校の時は、大阪市立の信太山キャンプ場で、まさに飯盒炊爨。私が高校時代、野外活動指導者連盟の高校生リーダーであった関係で、慣れ親しんだ信太山にしたのだが、「来たときよりも美しく」というキャンパー10か条の精神が生きていて、ひたすら備品のコッヘルや食器を生徒とともに洗った記憶がある。しかし、肉が余って私に処理を任され、妻が歓喜した記憶もある。(笑)M高校の時は、もうすこしゆるくなって、紙コップや紙皿を使い、レクリェーション的な感じだった。H高校の時は、他のクラスの担任が自前のガスバーナーなどを使って火を起こしてくれた。うーん。高校時代に鍛えた点火のスキルを使えずじまいだったことを記憶している。中にはマシュマロを串刺しにして、残り火で焼いたりする女子もいて、「飯盒炊爨」は死語になった気がした。(ただし、焼きマシュマロは、かなりイケるのでオススメ。)

こういう遠足は、仲間の絆も深めるのでいいものだ。ちなみに、画像を検索していたら、信太山キャンプ場は、「野外活動センター」という名称になりながら、今も存在していた。少しホッとした。

国連の本質と実態考

https://www.unic.or.jp/untour/subgen.htm
地理総合の特進コースでは、超久しぶりに教科書に沿って授業をしている。(仕方がないことだとは思うが)教科書は実に面白くないし、薄っぺらな記述が多い。世界のつながりで、国連についてやることになっているのだが、プリントを作りながら、やはり国連の本質について語るべきだと思った。

国連と日本では訳しているが、United Nationsを直訳すると「連合国」である。すなわち、WWⅡ中の、1941年8月、F.ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を出し、国連連盟に変わる新たな世界の枠組みを提唱、1945年4月25日から6月26日にサンフランシスコで会議が行われた。ドイツが5月7日に降伏したので、会議の参加資格を得るために残る日本に宣戦布告した国も多い。1945年になってから宣戦布告した国は、エクアドル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、トルコ、エジプト、シリア、レバノン、サウジ、アルゼンチン、チリなど南米を中心に多いのだが、結局51カ国が10月24日の国連(=連合国)設立メンバーとなったわけだ。

以後、中立国や植民地から独立した国、敵国であった枢軸国(日本やドイツなど)も参加して193カ国にまで拡大した。一般的に、最も加盟国の多い国際組織であることは間違いない。ただ、敵国条項(憲章77条・107条で元枢軸国が侵略行為やその兆しを見せた場合、安保理を通さずに軍事的制裁を行える)は死文化したものの削除されていない。この削除に関しては、1995年の総会でほとんどの国が賛成して決議された。ちなみに反対はゼロ、棄権したのは、北朝鮮、キューバ、リビアの3カ国である。なぜこの3カ国が棄権したのかを考察すると、社会主義国という共通項がある。リビアは、当時はカダフィのもと大リビアアラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ(:カダフィの造語で大衆による共同体制)国と称していた。ソ連とも繋がりが深く、イタリアの元植民地であったことも関係しているかもしれない。ロシアは北方領土の問題で、敵国条項を持ち出したこともあり、中国も同様の立場である可能性が高い。この条項が削除されずそのままなのは、安保理で、この2カ国が1995年決議では賛成したものの、残しておいたほうが有効だと考えている故のようだ。全会一致を避け、棄権した3カ国はそのシグナルだった可能性が高いと私は思う。よって、国連の本質は、今だにWWⅡの連合国である、というのは間違っていないと思う。

とはいえ、連合国だった米英仏と中露の冷戦、冷戦後の対立構造は大きく変わっていない。結局、経済力や軍事力といったパワーバランスが世界を動かしているし、しばしばこの五大国が関わった紛争が多く、国連の平和への理想は、拒否権で左右されてしまうし、総会では最も多くの票をもつ途上国も彼らに左右されていく傾向が強い。中国の一帯一路などという国家戦略は、この流れの中にあるに違いない。ちなみに、国連の分担金の推移は、長らく日本が第2位であった。これを中国が追い越したのは、その証拠であると思われる。中国は、経世在民のガバナンスを取り、国内の治水対策や失業者対策に、もっと金を使うべきではないかと思うのだが…。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/un.html
もういいかげん、安保理常任理事国の国益に左右される国連は解体し、新しい組織を模索してもいいのではないか、特にWHOから日本は脱退してもいいのではないか、などと夢想するところである。