死海でエンジントラブルして立ち往生 |
それぞれのバスには閉口した。(笑)死海へ向かうバスでは、驚きの光景を見た。ある停留所で、運転手が待っている人を見逃した。ふとバックミラーを見ると追いかけてくる。あわてて100mほどバックして、乗客を乗せたことだ。バスで100mもバックしたのは初めての経験である。死海からの帰路では、途中でバスがエンジントラブルを起こし、煙が出てきた。最後尾に座っていた私たちは、外に退避した。退避したといっても、そこは海面下死海西岸の礫砂漠。おそらく40℃を超えていたであろう灼熱地獄であった。バスの運転手は携帯電話で連絡を取っていた。日本なら、まず警察がやってきて三角コーンを置き誘導していくことになるだろうが、結局こなかった。来たのは「軍」で自転車に乗っていて怪我したらしい青年を連れて行っただけ。後は、後ろから来た同じ会社のバスに押し込むくらい。面白かったのは、文句を言っている現地の観光客ではなく、世界中から来ていたバックパッカー達。ニコニコ談笑している。我々日本人は、こういう危機に際しては、子供や老人、女性が優先されるべきだと考え、我先に後から来たバスに乗り込むのを良しとしない。同じ考えを持っていたらしい青年がいた。聞くと私の予想通りドイツ人だった。なんか似てるんだよねー。結局後から来た2台目のバスに乗り込むことになったのだが、この時の大事件は別の章で触れたいと思う。
北部の街・ティベリアへ向かうバスは超満員だった。若い兵士が勤務地に戻るのだろう。軍服に巨大な荷物を抱え、通路にまで座っていくことになった。半数の兵士は銃も携帯している。ゴルゴ13御用立のアーマライトM-16ライフルや、軽機関銃ウージーである。安全装置をつけているはずだが、銃口が他の乗客に向くこともある。恐いぞ。あんまり満員だと、乗りたい乗客が停留所にいても運転手は無視する。これも凄い。全てが個人責任。
ある意味最も過酷だったのが、ナザレ-アッコー間のバス。息子がヘブライ語のWEBで検索し、その存在を発見したのだった。「地球の歩き方」によると、普通ナザレからは第三の都市ハイファ経由で遠周りしてアッコーに向かうことになっていた。しかし、このバスは、アッコーを目指して最短ルートで向かうバスだったのだ。そういうと聞こえが良いが、途中の街に寄っていく。このあたりの街はほぼ山の麓にある。街ごとに登って、ロータリーで回転して、降りての繰り返し。しかもこれらの街中の道には、速度制限のために、何mかおきに盛り上がったトコロがあるのだ。延々2時間半、タテにヨコに我々は揺られ続けることになったのだ。これは苦しい。ナザレからアッコーまで乗るような酔狂な客は我々4人だけで、アッコー近くになると、運転手は何も言わずバスをガソリンスタンド脇に止め、自分の為の水やパンを買ってきた。そしてアイスクリームを食べながら運転しだしたのだ。大阪市交通局なら誰かがこう言うだろう。「クビ」。(笑)
これら運転手に共通していたのは、停留所ごとに乗り込んできた客と発車した後も料金のやりとりをしていること。中には料金表を見せたりしながら運転している者もいた。前を見て運転してほしいもんだ。近くの乗客もよく声をかける。そのたびにそっちを向く運転手もいる。日本では考えられないラフさだ。
乗客も携帯電話をかけまくりである。でかい声で話している。私はヘブライ語が分からないのでただの雑音であるが、まあ迷惑きわまりない話である。これは、アッコー-テルアビブ間で乗った鉄道でも、エレサレム市内のトラム(路面電車)でも同じ。タフでなければ、イスラエルでは生きていけない。
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