2012年3月26日月曜日

「リオ+20」から思索する

本年6月、リオデジャネイロで『国連持続可能な開発会議(リオ+20)』が開かれる。伝説のとなったカナダの日系少女、ケヴァン・スズキのスピーチ(10年10月11日付ブログ参照)から20年がたったわけだ。この間、『持続可能な開発』というコトバが、グローバルスタンダードとして認知され、環境問題が普遍的な世界的課題だと認知された、と私は思っている。とはいえ、現実的には温暖化問題等で、中国やアメリカといった大国の国益を克服しえているわけではない。

JICAの月刊誌「JICA's WORLD」の最新号で、この「リオ+20」の特集記事が組まれていた。
http://www.jica.go.jp/publication/j-world/1203/pdf/tokushu_01.pdf

前からこの件を書こうと思いつつ、実は逡巡していたのだった。と、いうのも、『持続可能な開発』とは何か、という基本的な問題について、このところ私はずーっと考えているのである。

開発経済学をここ数年独学してきた。経済学の基盤となるのは、全ての人々は最も効率的に利益を追求するものである、という前提である。開発経済学も、当然その基盤の上に立っている。アジアの開発経済学の成果は十分に認めるのだが、私の興味の対象であるアフリカにおいて、その基盤自体に疑問符を抱くようになった。おそらくは、京大のアフリカ研の公開講座に通ううち、文化人類学的な視点も重視するようになったのだと思う。1人あたりのGDPや実質成長率という数値が、彼らの幸福という感覚にいかほどの価値をもつのだろうか、と考えだしたのである。

また、近代国家論を自分なりに学んできた。近代国家を歴史学的に見ると、国民国家の形成、資本主義の発展、民主主義の発展という要素が重要であるのだが、これまた近代国家になることが果たしてアフリカの人々の『持続可能な開発』に直結するのだろうか。そんなことも自問自答しているのである。

ところで今、徳間文庫の『ハーバードの「世界を動かす授業」』(リチャード・ヴィートー著)を読んでいる。この本は、ハーバード・ビジネス・スクールで世界中から集まる経営者や将来の経営者が学んでいる必須の授業、BGIE(ビジネス、グローバル アンド ザ インターナショナル エコノミー)の内容を記したものである。詳しい書評は後日に譲るとして、環境問題に触れた後に、このような記述があった。
『一方、非常に貧しい発展途上の国々では、人口が50億人にものぼるという問題がある。1人あたりの所得が6000~7000ドルになるまで、人は自分が汚した場所をきれいにしようとしないという研究がある。中国でもいまだに1人あたりの平均所得が3500ドルにとどまり、目の前に成長という文字がぶら下がっている中、我慢を強いられるこの不公平さを理由に、依然として環境を破壊し続けている。』

この6000ドル~7000ドルという数値、妙に気になるのだ。持続可能な開発のため、環境問題を我がこととして考えるためには、経済的な基盤がやはり必要なのだろうか。そのために近代国家とならねば、アフリカの人々を含め全人類は幸福になれないのだろうか。

こういう思索の中で、最新の情報を加えながら『高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト』の改訂にいよいよ取りかかろうと思うのだ。今日、7月に埼玉大学で開催される国際理解学会の第22回研究発表大会での研究発表申込書を送付した。

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