この論の中で面白い話が載っていた。働くという意味の英語には三種類あるらしい。レイバー(labor)は肉体を使った労働。ワーク(work)は工場や事務所での仕事。そして、プレイ(play)、これは家畜や機械にはできない労働を意味するらしい。古代以来、人間の労働はレイバーが中心だった。それが産業革命でワーク中心になり、IT化・グローバル化によって、先進国ではワークの需要が大きく減少しているわけだ。途上国に生産拠点が移り、IT化によって事務所の仕事が減少したわけだ。昔はアメリカでは、高校を出てタイピストの学校に行くだけで、雇用が十二分にあった、と。日本でも高校を出て工場で働いて、十分中間層になることができた、と。…なるほど。
伊藤教授は、これからはプレイという労働のカタチが必要だと主張する。人間にしかできない労働。それが、タイトルにある日本経済の「革新」であり「未来」なのだ。
私自身は、この小論を読んで2つのことを考えた。
ひとつは、中堅校の教師としてである。本校では就職を希望する生徒もいる。ワークという労働をするにしてもプレイに移行できる力をつけさせたい。昔工業高校にいた時、クラスでも指折りのヤンチャがいた。信頼関係だけは十分にあったので、就職先も私が決めた。(バブル最盛期だったので)給料は他の会社よりかなり高い。その会社(ローソンなどの店舗設計)の人事担当は、ヤンチャでもいい、頑張れる生徒が欲しいとのことだった。彼は、私の指示通り就職した。最初は作業ばかりだったらしいが、面構えがいいとのことで、営業に回され成果を上げたらしい。ある日突然連絡が入った。「結婚するので、仲人をして欲しい。」びっくりした。岡山の新支店長に抜擢されたのだという。設計も手掛けているとのこと。社長派と常務派の両方からかわいがられていて、どっちかに頼むとややこしくなるので恩師に頼むことにしたとのこと。(笑)分数の掛け算に四苦八苦していた男が、設計までできるようになったのは、妻となる同僚に教わったかららしい。(笑)でかい4WDに乗って岡山から挨拶にきたことを思い出す。彼にしかできないプレイがあるようだ。今も年賀状のやりとりが続いている。学力以上に人間力…本校でもF君のような奴を育みたい。
もう1つ考えたこと。アフリカでは、またまだレイバーが中心だということ。この格差を考えるたびに、アマルティア=センの「貧困」の概念を改めて考える。日本でも、ブータンのような幸福論が出てきた。開発教育の世界でも、そういう立場をとる先生方も多いようだ。正論かもしれないが、アフリカの水を飲んだ私としとしては唸ってしまう。
持続可能な開発、それはやはりレイバーからワーク、そしてプレイへとスパイラルしていくことなのだろうか。うーんとまた唸ってしまうのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿