2012年3月20日火曜日

衝撃の内閣府雇用調査 私見

衝撃の内閣府調査だった。2010年春に学校を卒業した者のうち就職できなかったり、就職してから3年以内に離職した割合が、大学・専門学校卒で52%(中退者を含む)、高校で68%だという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120319-00000078-mai-pol

先日書いたように、グローバリゼーションによる社会全体の雇用の変化(3月8日付ブログ参照)の影響が大きいとは思うが、中堅校の現場の高校教師としては、それだけではすまされない。定職についていない彼らを全面否定する気はないが、異常事態である。今日は危機感を持って書きたいと思う。

私は「ゆとり教育」についてメリットもデメリットもあると思うが、現状を見るとデメリットの方が大きいと言わざるを得ないと思う。好きなことはやるが、嫌いなこと、しんどいことを避けるという生徒が全体的に増加していると思う。教育にはバランスが必要だ。興味関心を広げる「学び」は重要だが、いわゆる強いて勉める「勉強」との両輪がうまくマッチすることが重要だ。義務教育の段階で、このバランスが狂っているように思うのだ。もちろん現場の先生方を責めているわけではない。カリキュラムがそうなっているようだ。

教育原理のテキストみたいな話になるが、「知育」「徳育」「体育」の3つの視点から、この内閣府調査の結果を考てみた。まず「体育」から見ると、体力がないと精神力(気力)がどうしても弱くなる。離職したり中退したりする原因の1つは、最近の生徒・学生の気力が衰えているとしかいいようがない。

次に「知育」から見てみよう。私は、全ての教科学習というのは、自己のシミュレーション能力を磨くための知識を伝授され、それを知恵にかえるものだという私見を持っている。社会科の教師としては、歴史から学び、それを経験知とすること。たとえば中国史を学ぶことで中国の人々の考え方の理解に深めることが重要だし、ナチスの政権奪取(WWⅠの戦勝国やユダヤ人、共産党を敵として何度も繰り返しプロパガンダすることで、中産階級に支持を広げる方法)を学べば、現在の日本で同様のことが再現されていることが認識できるはずだ。地理も大事な経験知だし、物事の考え方の経験知が倫理だったりする。政治・経済も同様である。数学も理科もつきつめれば論理的な思考のトレーニングだ。英語も国語もそういうトレーニングの基礎となる言語的なトレーニングである。各教科によって、「学び」と「勉強」のバランスは異なるが、「知育」がしっかり自分のものにならないと、社会で生きる上で最も重要なシミュレーション能力が養われない。この内閣府の調査を見ると、自分の人生へのシミュレーション能力が欠けているのではないだろうか。社会はきびしい。なかなか自分の思うと通りにはならない。それが現実である。離職や中退というカタチで逃げても、悪化することのほうが多い。それが見えないのは、全体的なシミュレーション能力の欠如である、と私は思う。理性的に判断できないことは、「知育」の問題である。

そして「徳育」である。「自由」という概念を責任という二律背反した位相から見ず、クレームをつけることが「人権」だという社会になってしまったようだ。自由は自己の責任を果たすことで自ら獲得するものである。高校における徳育は、ドグマ的な押し付けの徳育ではなく、生徒集団の中で、さまざまな人間がいることを知り、人情の機微を知り、自己の責任として周囲を幸福に導く訓練が行われるのが、私は徳育だと思っている。リーダーシップの芽のある生徒にはそれを延ばし、苦労させなければならない。ささえる側で活きる生徒は、それを伸ばせばいい。人間力は集団の中でしか育まれない。当然理不尽なこともある。社会は「正義のロジック」で割り切れるものではない。したがって、理不尽に耐えれることも人間力である。今回の結果は、そういう自己の責任の認識の甘さ、理不尽な現実への対応力の欠如とも言えるだろう。

健全な「体育」で気力を。「知育」で様々な知識を知恵に変え、シミュレーション能力を。「徳育」は集団の中で責任を果たし自由を獲得し、理不尽な社会に耐えれる対応力を。

私は、現場の高校教師として、自分の教え子から、この現実を変えていきたい。日本の現実から見れば微々たるものかもしれない。でも、私に出来ることはこれだ。そして最終目標は、当然これらをクリアーした「地球市民」の育成である。

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