意外にも美味しい。「天下一品」そのものである。冷凍食品のモノには少し劣るが、カップ麺より良い。あのドロっとしたスープ感は、やはり店舗に行かないと味わえないが、十分に「天下一品」を感じる事ができた。コスパ的に十分満足である。
2025年3月8日土曜日
天下一品の袋麺
2025年3月7日金曜日
神なき時代の終末論 書評
…学生時代、朝日ジャーナルを読んでいた私でも、納得がいくロジックである。国際理解教育の徒としては、リベラルなスタンスが学会やNGOの主流であるが、個々の事例で私のスタンスは微妙に違う。リベラルであることが正義ではない、それぞれの問題において、バランスが重要だと最近考えている。
…たとえば、環境問題。西欧主導のEVなどは、ガソリン車よりCO₂の問題があるし、太陽光発電や風力発電についても無謬ではない。環境関係企業の利権も大いに問題である。SDGsの主軸である、経済成長と環境問題のバランスが重要なのであって、環境重視が普遍的な正義だとは言えないと思っている。
…異文化理解も同様である。世界的に問題化している移民問題について、是々非々の立場で考えたい。先進国で移民が増えることは少子高齢化の中で必要だという主張に同意したとしても、受け入れる側も、移民側も、異文化的相違を十分理解しなければ大きな軋轢を生む。何より重要なのは言語能力である。(特に日本語能力は難しい言語であり、この習熟が必須だと思われる。日本語理解なくしては日本の文化・四層構造や根源感情を理解できない。)移民を受けいること自体が正義ではない。自文化の崩壊を招くような受け入れは、埼玉の事例が示すように、大きな禍根を残すことになる。
…人権問題も是々非々である。日本の集団主義が絶対的正義だとは言わないが、バランスが重要であると思う。平和問題も然り。現況の情勢を鑑みれば、国是の平和主義も、足枷になっている側面もある。要はバランスなのである。
…国会で、夫婦別姓問題が論議されている。なぜこのような論議が重視されるのかわからない。結局のところ、奈良県知事のように住民票を黒塗りするだけでは飽き足らず、戸籍自体を抹消して本来の国籍を隠したい議員がいるのではないか。国民が審議してほしいのは、減税策であり、インフレ抑制、生活の向上なのだが、政治家は北京やソウルを向いて仕事をしているように見える。私立も含めた全高校の無償化も笑止。中国からの留学生を入学させる高校への援助であるという。大阪の浪速区や西成区では、中国姓の住居が爆発的に増えている。大阪の維新などは、まさに日本を売りに出して利権を得ようとしている。中国人ビザ延長問題も、日本での高額医療を受けやすくするためで、国民健康保険にも簡単に加入できるそうだ。高額の最新医療を受けて、帰国で費用を払わず、その費用は日本人の血税で賄われるという。こんな状況下で、国際理解教育の異文化理解を安易に進めることはできない。
…本書第3章では、ユダヤ的資本主義の話が出てきたが、多くの国で労働者の給与所得が増えないのは、結局のところ企業の利益の多くを株主に配当しているからという、実に単純な話である。企業は競争の激しい金融市場で投資を得るために配当を高くする。普通でも剰余価値説(マルクス経済学の核心)で搾取されているのに、まさに資本を持つ者と持たざる者の格差を拡大し続けているわけである。リベラル派は、何よりこの核心をつくべきであろう、と思ったりしたのである。
神なき時代の終末論 第4章(2)
廣岡正久は、「ロシア正教の千年」の中で、ビザンチン帝国の滅亡によって精神的孤立に陥ったロシアの不安と、ビザンチン帝国の正当な後継者をもって任じたロシアの自負心とが交錯した、複雑な心理状態を指摘している。また三浦清美の「ロシアの思考回路」には、人は深い信仰を持ち、最大限の努力をして神に近づくことができるという「テオーシス(神成)」という概念が正教会で重視されたとしている。この一種の宗教的超人思想が、正教会と皇帝権力を結びつけ、徹底した政治と宗教の一体化を生んだようだ。
ロシアの宗教精神は、言語の問題(スラブ語訳の聖書)、皇帝権力との結びつきからくるナショナリズムの表出、大地・自然と魂の一体感故の神秘性といった理由から生まれ、ロシア人をして極めて宗教的な民族にしている。当然、終末論的な世界観を持ち、神の恩寵を広めるべく西欧の大航海時代と時を同じくして、シベリア獲得に乗り出している。
一方で、ロシア革命で訴えられた「万国の労働者よ団結せよ」という言葉には、啓蒙思想の一流派といより、メシア的終末論的響きを持っている、一見無神論的な装いをまとっているが、その根底には終末論的・黙示論的な狂気の熱狂があると著者は記している。
ロシアにとっては、西欧の(非西欧にとっては特殊な)政教分離や主権国家や国際法や自由・民主主義などよりも、自らの勢力圏を維持して、己の文化の核にある神聖を守り、強力な世俗権力によってロシアの力を再興することの方が重要だといえるのである。
…本日のブログの最後の段落こそがロシア理解の鍵である。西欧の影響下にある日本を含めた多くの国にとって、このロシアの思考回路を理解するのは難しい。よって、ウクライナ側に立つことになるのだが、それが正義と言い切れないところに、今回の問題があると私は思う。ウクライナ問題については、もう少し静観したいと思うのだった。
2025年3月6日木曜日
神なき時代の終末論 第4章(1)
政教分離・価値相対主義・個人主義といった西欧文化の帰結(普遍主義と称している)は、非西欧社会においては自らの文化を内から蝕んでいく。ロシアは、西欧文化の基本を形作る歴史的経過(ローマカトリック・封建制・ルネサンス・宗教改革・大航海時代・啓蒙運動・国民国家形成など)とは無縁であった。17世紀のピョートル大帝は、(後の)日本の明治政府と同様に。西欧文明を摂取して列強とならぶ大国を目指したが、そのツーリズムは、アジア的、ビザンチウム的、ロシア正教会的な古い習慣を持つ(スラブ主義の)民衆との亀裂を生み、革命に繋がっていく。
かのハンチントンは、ボルシェビキの革命は、「西欧には存在しない政治・経済制度を、西欧でつくられたイデオロギーのもとに創設した」と言っている。うまく欧化主義とスラブ主義を止揚し、革命によってロシアは、欧化主義者もスラブ主義者も西欧の後塵を拝しているという劣等感から開放され、一気に西欧を飛び越してしまったのである。
政教分離・価値相対主義・個人主義といった西欧文化の帰結(普遍主義と称している)は、非西欧社会においては自らの文化を内から蝕んでいく。ロシアは、西欧文化の基本を形作る歴史的経過(ローマカトリック・封建制・ルネサンス・宗教改革・大航海時代・啓蒙運動・国民国家形成など)とは無縁であった。17世紀のピョートル大帝は、(後の)日本の明治政府と同様に。西欧文明を摂取して列強とならぶ大国を目指したが、そのツーリズムは、アジア的、ビザンチウム的、ロシア正教会的な古い習慣を持つ(スラブ主義の)民衆との亀裂を生んだ。
かのハンチントンは、ボルシェビキの革命は、「西欧には存在しない政治・経済制度を、西欧でつくられたイデオロギーのもとに創設した。」と言っている。うまく欧化主義とスラブ主義を止揚し、革命によってロシアは、欧化主義者もスラブ主義者も西欧の後塵を拝しているという劣等感から、一気に西欧を飛び越してしまったのである。
ところで、ロシアの根源感情について、井筒俊彦は「ロシア的人間」(1953年)の中で、自然と人間の魂の間には血のつながりがある、と述べている。著者は、これは理解不可能な暗い闇、ロシア独特の陰鬱や憂鬱で、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」に見られるようなもので、ロシアにおける自由や開放は、西欧的な理性のもとでの自由・平等・幸福追求の権利とは全く異なっている。
ロシアの歴史は戦争の連続であった。よって、ロシア人の心のなかには、常に周辺に脅かされるという恐れと、耐え忍ぶ忍耐力、一気に形勢逆転する軍事力を手に入れ勢力を拡大する「力への意思」があり、ロシア正教会は基本的にロシアを守る戦争には好意的で、兵士や武器も神によって祝福される。核兵器の使用もロシア防衛のためには認めている。
亀山陽司は「地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理」の中で、ロシアにとって戦争とは、単なる防衛でもなく、単なる侵略でもない。それは巨大な祝祭であり、国民にとって何度も追体験されるべき歴史的記念碑である、とされている。
…今回のエントリーで、最後の三段落の内容は、特に重要なロシア理解であると思う。WWⅡで最も多くの戦死者を出したのは、大祖国戦争と呼ばれるロシアであったし、ナポレオンとの祖国戦争でも、自らの被害を顧みず、焦土作戦を実施している。祝祭と呼ぶのが正しいのかどうかわからないが、そこにロシア正教の神の祝福が存在したように思われる。
激甚災害 大阪万博
2025年3月5日水曜日
神なき時代の終末論 第3章(3)
20世紀の初頭、オスヴァルト・シュペングラー は、「西洋の没落」の中で、あらゆる文明の根底に、文明を支える「根源感情」があると語った。(著者の言い方でいえば、風土的な基層をもとに深層における歴史・文化・宗教から生まれる感情)これは、文明の機動力となるもので、象徴的にあらわす表象がある。シュペングラー は、ギリシア文明ではアポロン、西欧文明ではファウスト的なるものだとしている。
ファウストの精神とは、ありとあらゆるものへの好奇心や冒険心に富み、万物を知り尽くし、かつ自らのものにしたいという貪欲な感情である。この精神が西欧に特有の壮大な建築や芸術や実験的な科学を生み出した。しかし、ファウスト的精神は悪魔・メフィストフェレスに魅入られたかのように膨張し、西欧文化はWWⅠに帰着して崩壊した。忘れてはならないのは、ファウストの背後には神がいたことである。
著者は、西欧が海に面していたことも、好奇心や冒険心に影響を与えたのではと記している。それに対して、ロシアはあくまでも大地的で、大地に閉じ込められていると見える。ロシア正教会は、西欧のプロテスタントの合理主義に対し、個人主義的で内面の信仰を重視するのだが、大地に根ざす神にたいして深い祈りとある種の神秘主義をもつ。ドストエフスキーの作品には大地にひれ伏して神に祈る姿がたびたび描かれる。大地的なものと神の結びつきがロシアの根源感情であるとしている。
ところで、西欧文明が、抽象的な宇宙的思考物性の本質論を持ったギリシア文明を基盤としているが、それを乗り越え、無限に広がる抽象的な空間のイメージを持った。数学においても、ギリシアの人間の経験や視覚に基づく幾何学から、代数学を発展させた。この西欧の無限への拡大は、天上の神や悪魔とも垂直的につながった存在として了解し、その立体構造こそが、西欧の根源感情の底にある。
アメリカは、特異で海の精神と大地の精神の両方を兼ね備えた多民族国家で、リベラルの理念(自由と民主主義)を国是としているが、これは表層価値である。著者は、その深層に狂信的な宗教運動(建国時の回心や大覚醒運動)、政治的熱狂、メシアニズム的なユートピア主義、ファンタジーを根底に持っていると考えており、この冒険精神と夢想が絶えざるイノベーションを引き起こしてきた。これがアメリカの根源感情だとしている。
…今回のエントリーで、特に興味深いのは、西欧のファウスト的な根源感情、さらにはギリシアの有限性を超え、無限への拡大・立体構造という著者の視点である。
…ここで、少し記しておきたいことがある。著者は学界の重鎮であるが、その文章は少し晦渋である。これを要約するだけで、私自身の学びと文章力の強化につながると思っている。最近はAIなどで要約することが耳目を集めているが、私は決していい傾向だとは思っていない。特に児童・生徒・学生の立場でAIを多用するのは、いかがなものかと思うのである。
2025年3月4日火曜日
神なき時代の終末論 第3章(2)
M・ウェーバーは、この両者を区別して、西欧的な資本主義はピューリタンによって形成された、20世紀にさしかかると、アメリカではユダヤ的資本主義のような貪欲な金銭的利益を求める資本主義に変化しつつあるとしたのだが、ゾンバルトは、一貫して資本主義を牽引してきたのはユダヤ的資本主義であったと批判した。この2人の論争は、あくまで20世紀初頭の話で、ナチのホロコーストもイスラエル建国もロシア革命もアメリカのユダヤ゙系移民の活躍も知らない時代の話である。
では、両者の論争の主題となったユダヤ的資本主義とは何か?ゾンバルトは、ユダヤ人の持つ「バーリア性」(固有の国や土地や故郷を持たず、他国や他の場所に寄宿する性格)に注目した。彼らは、世界中にディアスポラしつつも、そこで仕事をし、政府の要職にも入り込む。またネットワークを駆使し、情報を伝達できる。さらに伝統的な仕事につくことができない故に世界中をつなぐ自由な金融業・商業活動に向いていると主張した。
最初からボーダーレスの空間に置かれた彼らは、特定の場所や文化に縛られない貨幣を駆使し、禁欲的な生活態度と抽象的・合理的な思考に対する愛着もまた有利に働き、合理的な金融(=貨幣が貨幣を生むという最も純粋な資本主義)を確立した、というわけである。
M・ウェーバーは、ある場所に根づき、ある種の倫理的精神をもち、地縁的な人間関係を基礎にした組織による産業活動(=モノの生産・市民的資本主義)と、ユダヤ的な金融活動(=カネの動き・ユダヤ的資本主義)を区別したが、著者はこの類型は現代の経済学が見失った極めて大事な論点だ、としている。
現代のグローバリズムを眺めた時、我々は圧倒的なユダヤ的資本主義の活動に目を奪われる。ヨーロッパ各地から故郷を捨てて新天地にやってきたアメリカこそが巨大な「バーリア」の集合体であり、合理的精神と科学・技術による富と自由の無限拡張を求めて進んでいるとも言えよう。確かなことは、ユダヤ的であろうとピューリタン的であろうと、西欧の生み出した資本主義は、旧約の一神教的宗教意識を背景にしていることである。
…今日のエントリーに出てきたユダヤ人のネットワーク性について、息子がユダヤ教の研究発表をパリの学会で行った際、エレサレムの大学からパリの見ず知らずのユダヤ人に連絡を取ってくれて滞在できた、という話を聞いたことがある。ロスチャイルドのような国際金融資本だけではなく、ユダヤ人の中に今も草の根のネットワークが厳然としてあることを記しておきたい。
2025年3月3日月曜日
確定申告の日
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とはいえ、2週間前になんとか予約ができて、今日の日を迎えたのである。意外に税務署の方が丁寧で、最終的な申請では、名前と住所等と数字の入力以外は全部やってくれた。(笑)まあ、専門の人がやったほうが絶対に早い。私は、パソコンはともかく、スマホが大嫌い。字が小さいし、指であらぬところを押してしまうことが多いのである。と、いうわけで、無事終わったのだった。
思えば、在マレーシア時代もほとんどやってもらった。実際に税務署に行って中華系の職員さんに全てやってもらったし、PCの時は、PBTのマレー系の事務職員・イタさんがやってくれた。こういう公的な事務処理は、B型の血液が受け付けないタイプである。(笑)
増税大好き・財務省が批判にさらされ、これで税務署の対応が悪かったら、善良な市民でもブチギレるところだが、親切丁寧だったので、平穏な雰囲気だったことを伝えておく。
2025年3月2日日曜日
神なき時代の終末論 第3章(1)
著者はフロイドとユングの深層心理の理論は、世界や歴史にもヒントを与えてくれるとし、世界を作っているのが人間である以上、この意識の四層が作用しないというとい方がおかしいとしている。
(1)最も表層にあるのは、ある種の理念や思想、何らかの高い価値などで、自由・民主主義の勝利や、マルクスの唯物史観、国連の理想である世界のすべての人間が平等で平和に暮らせる世界像など。
(2)次の中層にあるのは、現実的なあり方で、個人で言えば自己利益や生存の確保、仲間との信頼関係、国家の場合は国益、勢力圏、生存圏、同盟関係や敵対関係、戦争や紛争などである。
(3)その下の深層にあるのは、ほとんど無意識に人々の思考様式に型を与える文化であり、歴史的経験である。宗教的なものが大きな意味をもつのは、さしあたりこの層である。
(4)その下の最下層の基盤にあるのは、和辻哲郎的な「風土的基層」であり、著者はこれを重視している、と述べている。
この後、ネオコンや、ドイツの経済史家・ヴエルナー・ゾンバルトのいささか極端な論争的主張である「プロテスタントはユダヤ人である」について述べられている。米国に渡ったプロテスタントの多くが16世紀にカトリックのスペインに追われてヨーロッパ各地に転在したユダヤ人の改宗者(コンベルソや、蔑称のマラーノと呼ばれた人々)である可能性は十分ある、アメリカにおけるユダヤ教徒プロテスタントの宗教的な基底にはかなり重なりがあるのだろう、と著者は記している。
この章の前半部の最後に、著者はアメリカのリベラル的価値の世俗的表現というアメリカの歴史的使命を背後で支えるのは、「ユダヤ・キリスト教のメシアイズム」であるし、「深層」レベルで、アメリカを突き動かす、宗教的意識につながるような何かがある、と結んでいる。
…この歴史の四階層という考え方は実に興味深いと私は思う。日本という国家で見れば、表層的には平和主義という国是、中層にあるのは、国益と他国の国益の止揚とも見れるリベラリズム(ともすれば裏切られるが、政府は遺憾としか言わない。笑)、深層にあるのは、自己と他者の間柄的存在(和辻哲郎)を最重要視する集団主義と朱子学的な自己理解と実践、最下層にあるのは、稲作が可能な明瞭な四季をもつ気候と恩恵と災い両面を持つ自然環境(和辻哲郎で言えば、モンスーン型)との調和であるといえるだろう。やっぱりに、日本思想の中では和辻哲郎が最強のように思う。
…ところで、この四階層、地理総合の授業でも使えそうだ。
2025年3月1日土曜日
神なき時代の終末論 第2章(2)
こういう近代社会において、”ある程度”自由と平等が保証されたわけだが、自由を抑圧する様々な権力や権威が存在し、未だに平等が達成されたわけではないし、宗教的権威、家父長的権威、陰に陽にある”差別”も存在する。これらを根絶することが真の”歴史の終わり”だとリベラル派は主張する。だが、著者はおそらく永遠にやってこないだろうと著者は述べ、フクヤマの「平等化が進めば進むほど、人々はわずかな差異に敏感になり、不平等を正せという情熱は熱を帯びる。しかもその差別や差異は、階級や社会的なものというよりも、個人の主観に強く依存するものとなっていく。」という言を借りて説明している。
かつて「奴隷」と呼ばれていた者は「被害者」(自らが何らかの被害者と思っている者)と呼ばれ、「反乱の権利」を持つが、今日では「保護される権利」をもち、特権化され、民主主義が救済の責任を負う以上、民主主義革命は永遠に続くことになる。リベラル派 の批判には建設的なものもあるが、批判主義に陥る事が多い。その欺瞞性は、常に外部に敵を求め、自らのあり方を問うことがない。その結果、自家撞着(じかどうちゃく:自己矛盾と同義)に陥ると著者は述べている。
自家撞着の典型として、著者が挙げるのはフーコーである。リベラルな価値は一見至極もっともであり、正面切って批判するのは難しい。フーコーは、すべての言説は権力への意思が働く(無味透明な蒸留水のようなサラサラした言説はありえず、必ずなんらかの自己の優位性を内在している。)と述べながら、同時にリベラルを標榜し、言説しているからである。
一方、自由・平等・博愛のフランス革命の精神は、ルサンチマン(弱者の強者への復讐心)の奴隷革命であり、支配者から支配権を奪い取る「権力への意思」がそこにある、とニーチェは言った。また、リベラルな価値の背景には、キリスト教道徳があるとニヒリストのニーチェは言う。フーコーはニーチェの「権力への意思」を現代において反復したにすぎないと著者は述べ、強者による弱者の支配も、リベラルな価値の正当性を掲げた弱者による強者の支配も、どちらも権力作用に過ぎない、とする。ニーチェは、キリスト教の終末論を破壊したと同時に、リベラル派の終末論(理想的な平等社会)も破壊したのである。
前回の書評で触れた「優越願望」は、ヘーゲルもニーチェも同じ「最初の人間」の根本である。ホッブズも、自然状態において同様の見方をしている。著者はここで、旧約の出エジプト記の奴隷から選ばれた民となり、多民族への優越願望をもつユダヤ教と、キリスト教の救済に見られる”逆さまの権力への意思”について述べている。
章の最後に著者は、リベラリズムはどんどん些末な領域に追い詰められ、自己中毒的に瓦解し、自分こそは強者であると宣言して権力をむき出しのままに肯定する人物を到来させることになるだろう、グローバリズムの果てに、我々はそういう時代に入りつつあるのではないだろうか、と結んでいる。
…前回のエントリーで、フクヤマが「最後の人間」というニーチェの言葉をタイトルに入れた理由が、後半のリベラリズム批判の中で語られたわけだ。
…こうして要約してみると、実に示唆に富んだ内容だったと思う。このところ、隣国の経済も中国同様崩壊しつつあり、日本は見捨てた格好になっている。西洋列強に搾取されたA・A諸国などより、はるかにルサンチマンな隣国の言い分(政治・経済から文化・スポーツにいたるまで反日の「恨」で凝り固まっている状況)は、この第2章を読むと、永続的であるだろうし、まさしく自己中毒的であることが明確になる。また、最後の人物が「誰と特定することはできないにせよ」との前置きがあるが、トランプ大統領のことを指していることは明白だろう。社会思想の視点から、反リベラルへの転換点に我々は立っていることを再確認したのだった。