2025年3月30日日曜日

経済で読み解く中世史4

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経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第7回目は、宋時代の形勢戸と兌換紙幣の話を中心に記していきたい。

唐の時代はマーケットに参入することも、陶磁器製造、養蚕・織物業、製鉄、製塩なども政府の管理体制化におかれていた。しかし唐の体制が崩れると、庶民出身の新たな富裕層(=形勢戸:形勢は成り上がりの意)が、農業も含めて台頭する。特に江南地方では、農機具の改良や灌漑、品種改良や水田以外での野菜栽培などが行われ、形勢戸による食料供給が増大し人口も増加した。宋王朝は形勢戸を支持基盤として成立したので、経済優先の文治主義となる。この文治主義(画像参照)は受験の世界史でも鉄板の内容。

首都の開封は大運河と黄河の交差する地点にあり物流のネットワークの中心となった。しかも、この時代に貨幣経済が大いに発展する。北宋では多くの地域で銅銭、四川や陝西では鉄銭が流通したのだが、重く持ち運びに難儀したので、交子鋪(こうしほ)と呼ばれる両替商が設立され、交子という預り証を発行するようになったのである。四川で銅銭の準備高不足で不払いが起こったのをきっかけに、民間から朝廷の専売ビジネスに変化した。すなわち交子は、世界初の兌換紙幣と化したのである。宋王朝は、銅銭・鉄銭の兌換準備を36万貫、交子発行限度をを125万貫とし、著しい経済発展の中、銅銭・鉄銭の鋳造が追いつかなかったが、マネーサプライを増大させたのである。

宋王朝は異民族の侵入を阻止するため、北方のモンゴル人や西方のチベットに巨額の貢納をしていたが、次第に窮し始める。貢納にあてる財源を確保するため交子発行限度が破られ濫発、12世紀初頭には2600万貫にまでなり、信用を失い価値が暴落、市場では信用不安からハイパーインフレーションに陥った。

結局、宋は貢納を止められた北方の女真族によって、華北・首都を奪われたのである。宋は信用貨幣を用いて経済発展を遂げたが、信用を失い、その副作用で滅んだ感がある。

…銅銭・鉄銭の重量問題が兌換紙幣の起源であるとは、実に興味深い。信用創造のシステムも生まれていたのであろう。でないと、マネーサプライがあんなに拡大はしないと思われる。いずれにせよ、兌換紙幣を国家そのものが発行すると失敗する。私はスウェーデンがその最初の例だと思っていたが、そう(=宋)だったか。(2日連続のお粗末である。)

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