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ローマがイタリア半島を統一してからの最大の問題は、慢性的な食糧難であり、肥沃な穀物地帯であるシチリア島は、戦略的な要衝でもあった。シチリア島はギリシアの植民市からカルタゴのものとなっており、対カルタゴのポエニ戦争の原因となっている。 戦争の勝敗を左右したのは、カルタゴの商人たちが自分の財産や艦船を国家のために使われることを嫌がった反戦派の影響が大きい。
カルタゴ征服後、地中海交易を事実上独占したローマは寛大で、納税すれば人種を問わず交易への自由参加、身分や財産の法律での保証をした。これにより東方のアレクサンドロスの後継者の国々から、商人がローマ世界に参入した。さらにローマは、港湾や道路のインフラ開発を優先的に進めた。これらの政策により急激に経済発展し、貧富の差も拡大する。
裕福な者が私財を投じ貧困層を軍団に雇用し、遠征して外地の土地を支配していく。カエサルはその最も有力な例で、彼は遠征によるリターンを富裕層に売り込み、投資を集めた。カエサルの軍団が強かったのは、そういう投資あってのことである。
この侵略戦争の時代は経済発展が続いたが、版図を拡大し、ローマが帝国となった後は経済が停滞した。民衆の不満を恐れたカラカラ帝は、征服地の有力者に市民権を与え懐柔するとともに、彼らからの税収を期待できた。さらに、公共インフラ(道路・水道・浴場など)を整備し、雇用創出を行い一定の成果を得たが、有力者が増長して軍人皇帝の時代になる。
コンスタンティヌス帝が、カラカラ帝以後の混乱を収め再統一したものの、地球規模の寒冷化で穀物生産が減少し、インフレを伴うスタグフレーションとなった。食糧不足は北方のゲルマン人にとっても深刻でローマに侵入してくるのだが、これを防ぐため軍事予算を拡大してみたものの、結局財政が持たず、防衛自体をやめ、東の交易に有利なビザンチウムへ遷都し、西ローマを捨てるという選択しか残されていなかった。続くテオドシウス帝は、東西分割を行い、不採算部門を完全に切り捨てたのである。
…受験の世界史におけるローマ史は、人物名も多く、長く複雑であるが、こうして経済からみるとスッキリする。ポエニ戦争の原因、カエサルの台頭の理由、公共インフラが各地につくられた理由、そして東西分裂…。実に興味深く読ませてもらった。現代の状況においても有益な歴史的事実の宝庫ではあるまいか。
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