こういう近代社会において、”ある程度”自由と平等が保証されたわけだが、自由を抑圧する様々な権力や権威が存在し、未だに平等が達成されたわけではないし、宗教的権威、家父長的権威、陰に陽にある”差別”も存在する。これらを根絶することが真の”歴史の終わり”だとリベラル派は主張する。だが、著者はおそらく永遠にやってこないだろうと著者は述べ、フクヤマの「平等化が進めば進むほど、人々はわずかな差異に敏感になり、不平等を正せという情熱は熱を帯びる。しかもその差別や差異は、階級や社会的なものというよりも、個人の主観に強く依存するものとなっていく。」という言を借りて説明している。
かつて「奴隷」と呼ばれていた者は「被害者」(自らが何らかの被害者と思っている者)と呼ばれ、「反乱の権利」を持つが、今日では「保護される権利」をもち、特権化され、民主主義が救済の責任を負う以上、民主主義革命は永遠に続くことになる。リベラル派 の批判には建設的なものもあるが、批判主義に陥る事が多い。その欺瞞性は、常に外部に敵を求め、自らのあり方を問うことがない。その結果、自家撞着(じかどうちゃく:自己矛盾と同義)に陥ると著者は述べている。
自家撞着の典型として、著者が挙げるのはフーコーである。リベラルな価値は一見至極もっともであり、正面切って批判するのは難しい。フーコーは、すべての言説は権力への意思が働く(無味透明な蒸留水のようなサラサラした言説はありえず、必ずなんらかの自己の優位性を内在している。)と述べながら、同時にリベラルを標榜し、言説しているからである。
一方、自由・平等・博愛のフランス革命の精神は、ルサンチマン(弱者の強者への復讐心)の奴隷革命であり、支配者から支配権を奪い取る「権力への意思」がそこにある、とニーチェは言った。また、リベラルな価値の背景には、キリスト教道徳があるとニヒリストのニーチェは言う。フーコーはニーチェの「権力への意思」を現代において反復したにすぎないと著者は述べ、強者による弱者の支配も、リベラルな価値の正当性を掲げた弱者による強者の支配も、どちらも権力作用に過ぎない、とする。ニーチェは、キリスト教の終末論を破壊したと同時に、リベラル派の終末論(理想的な平等社会)も破壊したのである。
前回の書評で触れた「優越願望」は、ヘーゲルもニーチェも同じ「最初の人間」の根本である。ホッブズも、自然状態において同様の見方をしている。著者はここで、旧約の出エジプト記の奴隷から選ばれた民となり、多民族への優越願望をもつユダヤ教と、キリスト教の救済に見られる”逆さまの権力への意思”について述べている。
章の最後に著者は、リベラリズムはどんどん些末な領域に追い詰められ、自己中毒的に瓦解し、自分こそは強者であると宣言して権力をむき出しのままに肯定する人物を到来させることになるだろう、グローバリズムの果てに、我々はそういう時代に入りつつあるのではないだろうか、と結んでいる。
…前回のエントリーで、フクヤマが「最後の人間」というニーチェの言葉をタイトルに入れた理由が、後半のリベラリズム批判の中で語られたわけだ。
…こうして要約してみると、実に示唆に富んだ内容だったと思う。このところ、隣国の経済も中国同様崩壊しつつあり、日本は見捨てた格好になっている。西洋列強に搾取されたA・A諸国などより、はるかにルサンチマンな隣国の言い分(政治・経済から文化・スポーツにいたるまで反日の「恨」で凝り固まっている状況)は、この第2章を読むと、永続的であるだろうし、まさしく自己中毒的であることが明確になる。また、最後の人物が「誰と特定することはできないにせよ」との前置きがあるが、トランプ大統領のことを指していることは明白だろう。社会思想の視点から、反リベラルへの転換点に我々は立っていることを再確認したのだった。
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