2024年6月29日土曜日

ケニアの増税反対デモ

https://www.jica.go.jp/Resource/activities/issues/agricul/
jipfa/africa_agri/ve9qi80000005ujs-att/20230125_02.pdf
ケニアで、増税二反対するデモが起こり、26人もの死者が出た模様。財政的に、対外債務がGDPの6割ほどに膨らんでいる。(このうちの3割を占める2国間債務残高は中国が71%強。前政権が、一帯一路の罠にハマって、ナイロビーモンバサ間の鉄道建設に関連するようだ。画像参照)この財政危機打開のための増税らしいが、コロナ禍の観光収入の激減や、ウクライナ戦争による穀物高騰などでインフレとなっており、反対デモが暴動へと発展したようである。

対外債務によるデフォルト危機は、ケニアだけの話ではないが、花卉栽培などがうまくいっていた矢先の世界的な経済の落込みが、脆弱なアフリカ経済を直撃している。

私の愛する国だけに、実に残念である。大統領がこのデモを受け、増税法案を撤回したのがせめてもの救いだろうか。

2024年6月27日木曜日

醜悪なフジ・日テレを弾劾せよ

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240627/k10014493541000.html
大谷選手の自宅を、様々な角度から勝手に取材し、本人や家族、そしてドジャーズが怒りをあらわにし、球団は以降の両社の取材を完全に拒否した、という報道が流れた。実際にはまだしつこく大谷選手の動向を伝えているようだが、取材拒否は当然のことである。アメリカの治安を考えると、本人や家族の生命の危険性さえある事例だ。近隣にとっても大迷惑である。人権に対する無理解、思慮のなさ、浅はかさに恐れ入る。

シーズン中なので不可能かもしれないが、もし、また引っ越しとなれば、球団は弁護士を使って莫大な損害賠償を請求すべきだろう。(アメリカのことだ、すでに準備に入っている可能性が高い。)大谷選手を応援する企業も両社のスポンサーやCM契約を破棄すべきである。

すでにTVは凋落というより、これだけ思慮がないというのは完全に終わっている。ワイドショーなどというくだらない番組のために、日本の至宝を傷つけることになったらと思うと、実に腹立たしい。あらゆる手段を使って、弾劾すべきである。

と、このような中で本人はホームランを量産している。ベッツ選手の怪我で、1番DHとなったと思ったら、二試合続けての先頭打者HRなど、水島漫画のような話である。おそらく家族のことが気がかりだろうが、なんというマインドの強さ。スーパースターを超えたウルトラスターである。

2024年6月26日水曜日

期末考査間近

https://www.morikado2.jp/ad/osakashinai-20220613.html
学院では、今週の土曜日から期末考査が始まる。授業時間数のクラス差があって、試験範囲を少し減らして、早くから試験作成に取りかかった。明日はいよいよ印刷だ。文科省の思考を重視する傾向が、学院の評価にも大きく関わっており、今回は、思考重視の問題を大幅に増やした。それが、未だに生徒の学力を把握しきれていないので、得点とどうと結びつくかが不安ではある。指定校や自己推薦入試に挑戦する総合コースや看護コースの生徒にとっては、3年の1学期の成績は人生に影響すると言っても過言ではない。がんばれー。

さてさて、学院はカトリックの学校なので、神に許しを請いつつ、人を許すというスタンスが常に強調されている。だから、教職員も生徒も、ホントやさしい学校である。そのやさしさにブディストの私もかなり救われている。ただ、昨年までの質実剛健の学園と比べると、正直”ぬるい”と感じることもある。特に国公立大学の共通テスト・一般入試に挑戦する特進コースは、受験生そのものである。やさいいことはもちろん良いことだが、自分を許していては入試で負けてしまう。

学園で、受験を突破した生徒たちの顔は、やはり精悍であった。強い意思が受験には求められる。最近、特進クラスでは、文系も理系も、教室に行くと多くの生徒が受験勉強をしていることが多くなった。精悍とまではいかないが、いい顔になってきている。いいぞ。激励に次ぐ激励をしつつ、少しばかり厳しいこともストレートに言い放つスタンスで、これからも接していこうと思う。

2024年6月25日火曜日

日本がぶっこわれた理由

「ねずみ」というYouTuberがいる。良し悪しはともかく、「日本がぶっこわれた理由」というコンテンツは、実に興味深い。特に3分後くらいに紹介される(世界有数の資産運用会社)ブラックロックのCEOの発言内容は、実にえげつない。

https://www.youtube.com/watch?v=9o-spC6J5ME&t=289s

マクロ経済については、私は高校生レベルの政経を教えることが可能といったレベルなので、絶対的な正解を語れる資質はないと思っているが、ねずみ氏の言わんとすることは十分理解できる。

できれば、ブログを見ていただいてる方々にも情報共有できたらと思う次第。

2024年6月24日月曜日

東京クレイジー

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/637cd64da89f5d43ec04cb20d5575ffb26d86f9f
東京都知事選はかなりクレイジーな様相を呈している。まずは、選挙ポスターの掲示板。48人分を選管が用意したが、結局56人が立候補し、掲示板に貼れない候補者はクリアファイルを渡されたとか。しかも、NHKから国民を守る党の立花氏は約24人を擁立、その候補者の掲示板に1箇所につき25000円を寄付すると、寄付者が個別に作成したポスターを24枚貼れるという活動をしている。そもそもポスター掲示板はいらないと考えているようで、活動というより、”悪だくみ”と言ったほうが適切かもしれない。公職選挙法の穴とはいえ…。https://www.tokyo-np.co.jp/article/335126

候補者もひどい。現知事はカイロ大学卒業という学歴詐称問題で騒がれているし、対抗馬とされている立憲民主党を最近離党した候補は、二重国籍問題で騒がれている。どう見てもごまかしているとしか見えないし、ご丁寧にも息子に絶縁されている。政権時の科学技術の開発問題で「2番じゃだめなんですか」という査定発言以来、この議員は小学生以下の知識しかないのかと思った。しかも早速選挙違反行為を代々木の連中がしでかした。2人共まさにタヌキである。このタヌキ対決と言われているが、その中で、広島からやってきた市長は誠実な人柄で際立っている。1500人のボランティアが説明会に押し寄せた。ただ、過去に私の大嫌いなI党のHを尊敬していると言ったらしく、そこが大きく引っかかる。

大阪府民の私からすれば、東京都知事選挙は全く関係がないが、東京在住の2人の政治家志望の教え子にとっては重大事である。おそらく注視していることだろう。なんとなく、世も末といった雰囲気が漂う選挙なのだが…。

コーランの中のキリスト教Ⅳ

https://media.ascensionpress.com/2017/04/10/reasons-confident-historical-jesus/
「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)の書評の続きを再開したい。前述したが、この本は、キリスト教神学の「聖書学」の見地から書かれていることを確認しておく。

召命以前のムハンマドがキリスト教徒と接触していたことが知られている。ガブルという名のキリスト教徒の奴隷と談笑したり、(新約聖書が朗読される)典礼にも触れている。その新約聖書は、「ディアテッサロン」(マタイの福音書を主にして共観福音書の物語をヨハネの福音書の年代的な枠にはめ込んだもので、”4つのものから”の意。2世紀後半にアッシリア人・タティアヌスの手によって、ギリシア語・シリア語などで編纂されたもの。)や外典福音書(エピオン派福音書・ヘブライ人福音書・ナゾライ(ナザレ)人福音書)などであり、これらはユダヤ人キリスト教起源のものである。

著者は推測でしかないが、としてこれらのテクストをなぜムハンマドが優先させたのかについて、当時すでに、これらの内容が民衆に部分的に知られ、かなり人気があり、聖母マリア(マルヤム)への関心も高かったことは疑い得ないとしている。

イスラムの側からすると、クルアーンは全て、天使ガブリエルを介した神の啓示であるので完全否定するに違いない。

2024年6月23日日曜日

クルアーンに登場する預言者

https://jp.mercari.com/item/m94438060172
PBTの教え子から貰った私が所持しているクルアーンと同じ画像
「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)の書評を続ける前に、クルアーン(=コーラン)に登場する預言者(神によって選ばれ、言葉を授かった人々=ナビ―)について述べるべきだと考えた。クルアーンには、およそ25人の預言者が挙げられている。中でも五大預言者は、ノア(アラビア語ではヌーフ:以下同様)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)、ナザレのイエス(イーサー)、ムハンマドである。

それ以外の預言者は、アダム(アーダム)、エノク(創世記に登場:アダムの子=カインの息子/イドリース)、エベル(創世記に登場:ヘブライ人の名の由来/フード)、サーリフ(詳細は不明)、ロト(創世記・ソドムの伝説に登場する/ルート)、イサク(アムラハムの子/イスハーク)、ヤコブ(イサクの子/ヤアクーブ)、ヨセフ(ヤコブの子/ユースフ)、リウエル(詳細は不明)、ヨブ(ヨブ記のヨブ/アイユーブ)、エゼキエル(エゼキエル書で知られる/ズルキフル)、アロン(モーセの兄/ハールーン)、ダビデ(旧約のサムエル記・列王記に登場するイスラエルの王/ダーウード)、ソロモン(ダビデの子/スライマーン)、エリヤ(モーセ以後の最大の預言者とされる/イルヤース)、エリシャ(エリヤの弟子/アルヤサア)、ヨナ(旧約ヨナ記に登場/ユーヌス)、ザカリア(洗礼者ヨハネの母/ザカリヤ―)、洗礼者ヨハネ(ヤヒヤー)である。

キリスト教(新約聖書)に関わるのは、イエスと洗礼者ヨハネ、その母ザカリアの3名のみであることがわかるだろう。ムハンマド以外の他の預言者は、ほとんどが旧約聖書に登場する。ペテロやパウロは入っていない。

イスラム教は、ユダヤ教・イスラム教の伝統の上に存在しているが、ユダヤ教の選民思想、キリスト教の三位一体を否定しており、イエスは神の子ではなく人間としている。面白いのは、クルアーンは聖母マリア(マルヤム)の受胎告知と懐妊を認めているが、アダムの創造と同じ、神の創造的天意である、としている。

「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」は、キリスト教神学の聖書学からのアプローチであるので、イスラム側の論理と完全に一致はしないという前提で、さらにエントリーを進めていきたいと思っている。

2024年6月22日土曜日

コーランの中のキリスト教Ⅲ

https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2018/02/15/134759
「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)の書評の続きである。いよいよ「聖書学」からの重要な内容に入っていくのだが、まずは、新約聖書の四福音書についての基礎知識が必要となる。高校の倫理では、それぞれの特徴までは深入りしないので、少し調べてみた。いつものように、高校生に話す感じで記して行きたいと思う。

普通、新約聖書に掲載されている順に、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書と呼ぶのだが、成立はマルコの福音書が最も早いと言われている。ルカの福音書は使徒言行録と同じ著者のもので、ルカ文書としてまとめられることもある。このブログでも何度か話題にしているヨハネの福音書は、他の三福音書が「共観福音書」(イエスの生涯など共通する記述が多い)と呼ばれるのに対し、イエスの生涯の記述よりその言葉の記述が多く異質である。

さて、問題はマタイの福音書である。この福音書は、まずイエスがアブラハムの末裔、それもイスラエル王の資格を持つダヴィデの末裔であるという系譜(誕生から幼児期も含まれている。)が示される。そして、モーセらが預言したキリスト(救世主)であることを旧約聖書の預言の成就から説いている。旧約からの引用が多く、「私は(律法を)廃止するためではなく、完成させるために来た。」という言葉に代表される。(5:17~18)また、アラム語(今日の画像のイエスの刑場での言葉はアラム語)のギリシア語への音写などから、元々アラム語(エレサレムで当時共通語とされていたが、ユダヤ人世界ではアレキサンドリアなどを中心にギリシア語が主流となっていた。)で書かれたのではないかという説がある。

この本の中では、コーランに影響を与えたキリスト教は、このマタイの福音書ではないか、ということが言われる。マタイの福音書は、前述のイエスの系譜の記述や旧約の引用の問題から、ユダヤ人キリスト教徒に向けて書かれたものとされているのである。

2024年6月21日金曜日

コーランの中のキリスト教Ⅱ

イスラエル・テレアビブ大学・ディアスポラ博物館 割礼道具の展示
「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)の書評をエントリーしていこうと思う。通勤時にコツコツと読んできたのだが、最初はかなり原始キリスト教団の歴史について、極めて学問的な批評がされている。なかなか根気が必要な内容だった。(笑)

高校生にわかるように要約すると、ペテロら(イエスの弟・ヤコブがその中心だった。)とパウロの確執である。パウロは、ユダヤ人でありながら、ローマの属州であったトルコ中南部生まれでローマの市民権を持ち、ヘブライ語とギリシア語を使いこなせた、ユダヤ人の中では国際派であるといえる。それに対し、ペテロら直属の十二使徒は、素朴なユダヤ人として、律法の遵守には寛容であった。特に「割礼」(生後8日目に行われる)は、旧約聖書創世記17章1から17節においてヤハウェとの契約締結の基礎とされる。この契約の印として重大な意味を持っていたのだが、パウロは、異邦人(ユダヤ人以外)への伝導のためには不要だとして対立するのである。

マレーシア・ブルーモスク近くの博物館にて割礼に関する展示
イスラム以前のアラビアでは、割礼は習慣であり、アブラハムと女奴隷との間に生まれたイシュマイルは割礼を施された。彼はアラビア人の祖先とされる人物であり、13歳で割礼を受けているので、クルアーンでの言及はないが伝承によって要求されている。ただ、ユダヤ教ほどの特別な意味合いは持たない。

パウロは、ローマ人への信徒への手紙の中で「文字ではなく霊によって」施される「心の割礼」を話題にしている。「福音」によって、アフラハムが受けた祝福が異邦人にも分け与えられる、としたのである。

まずは、「割礼」についての話から始めてみた。

2024年6月19日水曜日

ナオミの夢

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/1001584952
昔は、シングル盤のレコードを擦り切れるほどに聞いたものだ。その1枚が中学時代のヘドバとダビデの「ナオミの夢」である。これは歌詞がどうのというより、メロディーが良い。深夜ラジオかなにかで聞いてシングル盤を購入したのだと思う。当時の中学生は深夜ラジオを聞くのが流行りだった。(笑)

A面を聞きすぎて、B面のヘブライ語版も聞くようになった。あまりに何度も聞いたので、私はヘブライ語版の「ナオミの夢」を少なくとも1番は歌える。全く意味はわからないし、奇妙な感じを受けたが、呪文のように歌える。アレンジもこちらのほうが中東の匂いがして好きだ。カラオケで、最初は日本語で、途中ヘブライ語で謳ったりしたこともあったが、みんなあまりB面は聞いていないようで、ウケたことはあまりない。(笑)

だが、ヘブライ語との属性はここに生まれた。未熟な中学生であったが、その関わりは大きかったように思う。その後、断片的にヘブライ語との単語との属性も生まれて、NYCのシナゴーグで、老人たちと少し会食した後、「シャローム」とヘブライ語で行ったら、スタンディング・オーベーションを受けたこともある。(笑)結局、後年、息子の留学中にイスラエルに行くことになったが、その源はここにあるような気がしている。

ところで、この「ナオミ」を私は、長い間「直美という日本人女性の名」だと思っていた。しかしながら、ナオミ・キャンベルというアフリカ系のモデルなどの話題から、日本人の名ではないことがわかった。ナオミは、旧約聖書のルツ記に登場する。後世ダヴィデ王(しいては、イエスにも)に繋がるルツという女性の姑にあたる女性である。ちなみに、正教会では、ルツはルフィと呼ぶらしい。ONE PIECEとは全く無関係だと思うが…。

https://www.youtube.com/watch?v=gFREGVbiDiU(B面 ヘブライ語)

https://www.youtube.com/watch?v=N9_CrGinydc(A面 日本語)

2024年6月18日火曜日

木綿のハンカチーフ

https://www.soulrespect.
com/items/2502198
昭和は遠くなりにけり、である。時折、昔のフォークや歌謡曲などを聞く事がある。歌謡曲は、TVの歌番組などで、なんとなく耳に入り、なんとなく歌詞を覚えてしまう時代だった。そんななかで、私が特に名曲だと思うのは、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975 年)である。

この歌は、田舎で恋人同士だった2人の哀歌である。歌詞は、時間軸で変わっていく。「東へと向かう列車」という歌詞から、東京に就職したのであろう男性が、「華やいだ町で贈り物を探すつもりだ」と切り出すと、女性は、贈り物などいらないから「都会の絵の具に染まらないで帰って」と応じる。松本隆という作詞家は凄いなと言わざるを得ない。まさにプロである。”都会の絵の具”…凄いフレーズである。

結局、都会の絵の具に染まった男性は、もう帰れないと別れを決意する。これに対し、女性は最後の贈り物として「ねえ涙を拭く 木綿のハンカチーフ下さい」と応じる。極めて安価で普通で飾りのない”木綿”のハンカチではなく、”ハンカチーフ”である。…極めつけの凄いフレーズではないか。

今もなお、熱いものがこみ上げてくる歌である。あるYouTubeのコメントに「こういう歌を聞いて感動できる心はずっと持ち続けていたいもんだなぁ」とあった。まさに同感である。

https://www.youtube.com/watch?v=9uN1GdD4VCo

このような歌はもう作られることはない気がする。モノではなくココロ。時代と感性が違う。

2024年6月17日月曜日

プランテーションの構造的暴力

https://ashitane.t8s.jp/culture/culture_kenya/2543/
地理総合で農業を教えているが、いよいよ最終章、プランテーションの話になった。ヨーロッパ諸国では栽培できない熱帯性作物をヨーロッパに輸入するために始められたのがプランテーションであるといえる。最初はカリブ海の島嶼でのサトウキビから始まる。すでにアフリカ系の人々が奴隷として使役される三角貿易が行われていくことになる。その後、カカオやコーヒーなどに拡大していくわけだが、これらは現在も「構造的暴力」としか言いようがない状況を生んでいる。

なにより、ヨーロッパ人は良い土地をプランテーション農園にしてしまった。輸出が伴うので海岸近くが最高である。(ケニアのように、海から遠いハイランドで茶のプランテーションが行われたが、やはり豊かな土地が選ばれている。画像参照)というわけで、アフリカなどでは、豊かな土地を奪われ、残った貧しい土地で主食を栽培することになる。メイズ(白いとうもろこし)やミレット、ソルガムと行った雑穀であるが、人口支持力と対比すると、赤字になる。そう多くはない商品作物の収益が人口支持力のための穀物購入費に当てられ、貧しいままになっている。これを「構造的暴力」と言わずして何が暴力だろうか。ちなみに、教科書などでもモノカルチャー(単一耕作)という語彙が使われるが、コーヒーの原産地エチオピアでのコーヒー栽培面積はそう多くはない。ほとんどが主食の栽培に割かれている。

最近では、プランテーションの労働賃金が欧米諸国によって低く抑えられており、フェアトレード運動も盛んになっている。この問題は、「構造的」であって、一部の国や地域だけがこの運動で利益を得ても、解決にはならないと私は固く信じている。この構造自体を打破しないと、永遠にアフリカは救われない。そんなことを、授業で話していたのだった。

もちろん、商品作物について様々な面白い話もしたけれど、重要なのはこういった視点だと思うのである。なんか、久しぶりに地理を教えた気分になった。(笑)

2024年6月16日日曜日

ONE PIECE考 サンジの魅力

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.
html?isbn=978-4-08-102423-0#&gid=null&pid=1
久しぶりにONE PIECE考をエントリーしようと思う。原作の方は最終章に入って、いよいよエッグヘッドを脱出できるか、というところである。今日は、両翼の1人・サンジについて。私はゾロが最も好みなので、ライバルであるサンジは、女好きで鼻血ばっかり出しているイメージが強かったのだが、優しさと機転がきくというイメージがだんだん勝ってきた。ゾロとはまた違う魅力を感じている。

優しさに関しては、ナミさん、ロビンちゃんという呼び方にも表れているようだ。わざわざ年上のロビンをちゃん付けで呼んでバランスをとっている。女性と戦わないというフェミニズムは、ゾロにもあるがサンジの方がはるかに強い。

機転にかんしては、エニエス・ロビー編で門をこそっと開けたことが一味の最大のピンチを救ったし、常に一味全体を見て動いているのが俊逸だ。ゾロにはこういう面はない。

両翼の違いが面白い。ジンベエが加入し懸賞金ではNo4になってしまったが、両翼の位置は変わらない。エッグヘッド編では、サンジがルッチとの戦いが長引いてるゾロに対し、「役立たずが…」とつぶやく。その言葉にキレたゾロが、トドメをさす。全くいいコンビである。

サンジの過去は暗い。ホールケーキアイランド編で、人間としての優しさを持ち合わせていたが故の苦難が、今のサンジの原点となっている。実に味わい深いキャラなのである。

2024年6月15日土曜日

コーランの中のキリスト教

学院の図書館で哲学書を返却し、またまた宗教関係の本を借りてきた。「コーランの中のキリスト教ーその足跡を追って」(J.グルにカ著/教文館)である。こういう本が置いてある学院の図書館は最高である。

借りた後で、帰路に訳者あとがきを読んだら、この本には前編「聖書とコーラン」があるらしい。月曜日にもう一度図書館に行って、探してみようと思う。とはいえ、これまでのイスラームの学びの中で、およその内容は見当がつく。旧約聖書に登場するアブラハムやイサク、モーセやヨブなど、そして新約のイエスや洗礼者・ヨハネもクルアーンの中で預言者として重視されているからである。

序論には、後にパウロによって「偽りの兄弟」と呼ばれたユダヤ人・キリスト教徒(福音を信じながらも、割礼や律法といったユダヤ教の伝統を守った人々)の影響が、クルアーンに反映しているらしいことが書かれていた。実に興味深いところである。じっくりと読んで、また書評をエントリーしていこうと思う。

2024年6月14日金曜日

ネット時代の社会科教師の憂鬱

https://tdtaizen.com/laugh/2186
社会科は、いかに興味を持たせるかということが重要であると私は思う。どうしても暗記が主体になるので、面白いと思ったら、(好きになった歌の歌詞を覚えるように)学習内容も覚えれるというものだ。学院で臨席の先生とそんな雑談を先日していたのだが、最近の高校生は、TVも見ない、ネットで自分の興味のあることしか見ないので、いろいろな興味のアンテナが狭まっているのではないかという話題になった。

たしかに、ネット社会になって、情報の過多と同時にその矮小化が進んでいるように思う。隣席の日本史の先生は、時代劇なんかもやらないので、旧国名を全く知らないとなげいていた。たしかにそうである。地理の国名も同様である。昔は小学校から詰め込みで、こういう社会科の基礎知識を無理やり教え込まれたが、そのおかげで、TVや漫画などでも個人的にゼネラルに属性が広がったといえる。

今はそういう共通の話題が実に少なくなった気がする。これは、社会科の学習にとっては実に困ったことなのである。時事問題に興味がない生徒は、永遠に興味がないかもしれない。反対に、なにか興味が湧くことについては、実に詳しくなる。もうすこしゼネラルであっていいのではないかと思う。

最も困るのは、ゲームにはまって、それがなんら学習に関与しない場合もある。これがプログラミングなどの方面に派生してくれれば、それも意味があるのだろうが、とにかく、やりにくい時代になった、というのが、雑談の結論だった。高校生に訴えたい。自らの属性を拡大せよ。

2024年6月13日木曜日

外圧に弱すぎる日本政府

https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-1119927.html
OECDが、日本にもっと移民を受け入れるよう要請したのは先日のことである。EU諸国があれだけ難民の受け入れで迷走し、スウェーデンの治安の悪化をはじめ、各国でナショナリズムの右派政党が躍進している現状を差し置いて、日本を叩いていることは実にいただけない。先進国クラブの中で、極めて特異な単一民族国家であり、世界の言語の中でも学ぶのが難解な日本語がネックになる国に対して、短絡的な要請であると私は思う。欧米のこのような欧米中心主義のスタンスは、とうの昔にレヴィー=ストロースによって楔を打たれているのに、なんという無教養な話かと思う。

日本には、世界に誇るべき共通善がある。私の見立てでは、日本古来の八百万の神的かつ大乗仏教的な宗教的寛容と、集団主義的で、さらに朱子学的な自己鍛錬と義を重んじる文化、それを可能にしてきた教育が日本の骨格である。そう簡単に移民が馴染める国ではない。日本に移民するならば、日本語の習得に励み、そういう共通善を理解して来日すべきであえる。マレーシアで教えた教え子たちは、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、道教徒であれ、日本の文化を深く理解していた。2年間まさに日本語漬けでようやく得られた知識と技能で、自然と日本人と日本文化を理解してくれた。長年日本に住む在日の人々は、日本で教育を受けており、全く問題ないと私は思っている。しかし、反日教育を受けて、そのような姿勢が全く無い移民の受け入れには大反対である。日本の誇るべき文化を破壊しようとする輩は配して然るべきであろう。まして犯罪を犯すような移民は、ペルソナ・ノン・グラータである。

国際理解教育の徒である私は、移民が増加することそのものに反対しているのでは決してない。日本の共通善を共有できる移民でなければ、日本の良さが失われ、そして滅亡へと導かれるという危惧があると思っているのである。

現政権などは、外圧に抵抗する気など一欠片もないようだ。欧米、特にアメリカに言われたことに尻尾をふるポチそのものでもある。日本国民の血税で、共通善を理解しようともしない移民を無制限に受け入れ、生活保護や医療を負担しようとしている。政治家は、日本の持続可能な発展を少しでも考えているのだろうか。あまりに無教養である。

今日もニュースで、アメリカのミサイル生産を日本企業(三菱重工業やIHI)が担当すると報道されていた。武器輸出三原則もクソもない。はっきりとアメリカの要望なので、生産します。ワン!ということだ。日本国憲法を守れとドグマチックに叫ぶつもりはないが、あまりのポチぶりには呆れる。

移民の件もアメリカのミサイル生産も、結局のところ利権さえ手に入れればそれでいい、国民不在・国民無視の政治家が多すぎると私などは憤っているのだが…。

2024年6月12日水曜日

またやってくれたJR西日本

JR京都線・茨木駅で信号の不具合があったらしく、いつも私が乗る普通電車の前に出る区間快速が運休になった。普段なら絶対座れるのだが、すでにホームは区間快速に乗る予定だった人も多く、座るのを諦めた。普通なのにかなりの満員電車となった。まあ、昨年まで通っていた学園に通っていたら、死活問題だが、今の学院は30分程度で着くのでなんとか我慢できる。とはいえ、老体には朝からしんどいスタートとなった。

帰路、住道駅で珍しくスマホで写真を取った。85分の延着の区間快速に乗った。(画像参照:拡大出来ます)横の時計は12時を超えているのに、10時40分発とは、悪い冗談としか言いようがない。

JRの経営陣は、本来必要な点検要員の削減で、お詫びさえ車掌に言わせれば良い、という乗客の迷惑を顧みない姿勢をいつまで続けるのだろう。日本政府や大阪府・市と変わらない。まったく、ええかげんにしてほしい。

ウィトゲンシュタインの補助線

学院の図書館で、フーコーと同じシリーズの「ウィトゲンシュタインー私は消去できるか」(入不二基義著:NHK出版)を借りて読んだ。ウィトゲンシュタインは、分析哲学の祖とされる哲学者で「語り得ぬことには沈黙せよ」というアフォリズムが有名である。久しぶりの書評なのだが、その内容をブログで紹介するには難解過ぎると思われる。高校生の倫理で教えるとすると、せいぜい次の記述で紹介するのが関の山かもしれない。

前期の「論理哲学論考」には、一般的な独我論(本当の意味で存在するのは、私だけであり、それ以外は全て、私のこころに浮かぶ表象にすぎない、という説)を「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」というテーゼで論破し、先程のアフォリズムに到達するという構成になっている。後期の「言語ゲーム」(たとえば、スミマセンという言語には、”どいてください”や”ありがとう”などの”お詫び”以外の意味が、ソシュールの言葉を借りれば、その場その場でのパロールが存在する)は、「無主体論」から導かれた私的言語論からきている。

この本が味読に値するのは、むしろ序章の維摩経をウィトゲンシュタイン補助線として紹介しているところにあると私は思う。「”私”は全てであるからこそ、”私”は無に等しいのである。」という著者の(前期ウィトゲンシュタイン哲学のエッセンスといえる)視点は、まず、三角形や四角形の角の数を増やし、何千角形。何万角形にしていくと円に近づいていくという話から始まる。角が無限に多くなることは角がなくなることに等しくなるように、極端に反対であることは実は一致していることがある。「正反対の一致」である。”私”というあり方は無限に強力で特異であるからこそ、全く目立たなくなり消えてしまう、そういう「正反対の一致」を、著者は維摩経の入不二法門品から紹介している。

在家信者の維摩が、「不二の法門に入る」(=悟りの境地に入る)とはいかなることかについて問い、文殊を中心に、31人の菩薩がそれぞれ自説を述べ議論する内容である。「生じることと滅することが二である。生じることがなければ滅することはない。法は無生であることの確信を得ることが不二である。」「幸福と不幸が二である。知識が極めて清浄なためにあらゆる数値を離れており、知恵が虚空と等しく遮られることが不二に入ることである。」「これが世間的的なもの、これが超世間的なものというのが二である。世間の本性が空である場合、そこにはなんらそこから超世間的へ出ることもなく、そこへ入ることも行くことも行かないこともない、これが不二である。」などと菩薩たちが述べる。最後に、文殊が「あなたがたが説いたところは、それもすべて二である。なんらの言葉も説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない、これが不二に入ることである。」と言う。

文殊は、それまでの菩薩の言説を「ことば」という点で一括りにして、どれも二であると退けている。「ことば」の本質的な働きとは「分ける」ことであり、たとえば、Aという名前をつけることは、AとA以外を分けることである。よって、「ことば」は二なのである。そこで、無語、無言、無説、無表示…こそが「不二」(=分割の未遂行)となるわけだ。

文殊は維摩に、(あなたが出した問なので)「なにか不二の法門について何か語って欲しい。」というのだが、維摩は口をつぐみ何も言わない。「維摩の沈黙、雷のごとし」と言われ、維摩経のクライマックスとされる。この沈黙については、様々な視点があるが、維摩の沈黙は「ことば」の到達不可能な外に位置するとともに、この不二をめぐる「ことば」の中に巻き込まれて(そもそも問を発した故)「内」にもあるといえる。もしかしたら、この「ことば」のゲームに巻き込まれず、ただボーッとしていただけかもしれない。”悟り”と”おおぼけ”は紙一重かもしれない。

この維摩経・入不二法門品は、「正反対の一致」「語ることと沈黙」「言語の内と外」「言語ゲーム」などウィトゲンシュタインの哲学のポイントと繋がっている。なにより、著者の名字はこの入不二法門品に由来するとのこと。実に面白いではないか。

2024年6月11日火曜日

農業はビジネスである。

地理総合では、ケッペンの気候区分の学習を土台に農業についてやっている。第一・第二命題として、自然的な視点である、「乾燥と戦う農業」、「雑草と戦う農業」といった水収支を基本に据えた区分、第三の命題として、社会的な要素として「農業はビジネスである」という視点も扱っている。

私はアフリカに3回行ったが、この点に関して実に多くのことを学んだ。ケニアでは、国道で余剰の農産物を売るおばさんを何人も見た。ピーターが普通の農家にも連れて行ってくれて、キャッサバやトウモロコシ、あるいはパパイアなどが雑然と植えられているのを見た。日本人の目から見ると、粗放的で遅れているように見えるのだが、実はエコでこのような栽培方法があまり豊かではない土力を保持するらしい。彼らは自給的に農業をしているが、余剰は現金に変える。すでに自給的な農業などというものは、世界ではレアになっている。ロシアのダーチャと日本の趣味的な家庭農園くらいかもしれない。今日の画像は、ブルキナファソのゴロンゴロンという町で撮ったキャッサバを臼と杵で、粉末化している婦人の様子。町中でも飼えるヤギが周りをうろついているのが面白い。(笑)

とはいえ、ビジネスと遠い農業も存在する。農耕が不可能な乾燥限界や寒冷限界を超えた地、あるいはギリギリの地における遊牧が代表的だろう。京大のアフリカ研の公開講座で遊牧民の話を沢山聞いた。やはり面白いのは、メス重視のスタンスだ。オスは1頭いればいいわけで、その選に漏れた牛は、睾丸を木の棒で叩き、オスの部分をなくしてしまうと教えてもらった。すごい話だが、それが遊牧に限らず牧畜の生き残り戦略なのだ。メス化したオスは、肉牛として育てられ売られる。こんな話は授業で大いにウケる。(笑)

雑穀という語彙も、私はブルキナファソでソルガムやミレットを食べたので、経験的に話せる。うまくはないし、腹もふくれない。ほんと、鳥の餌という感じだった。サヘル地域の土地は、乾燥しているので、耕すと行っても日本のような鍬は使えず、スコップのような形をしており、表面を削るといった具合。これはガイドのオマーンに教えてもらったし、羊とヤギの見分け方は、耳がたれていると羊、立っているとヤギだと、NGOの職員さんに教えてもらった。アフリカのウガリやサザなどの主食についても語ったのだった。これはあまりふれていないけれど、ブルキナファソは当時台湾と国交を結んでいて、その技術支援で陸稲(畑で栽培する稲)を実験的に栽培していた。ケニアでも日本の技術支援で水田が開発されていた。耕運機などはメンテナンスがされず破棄されていたけれど…。

一方で、アメリカやオーストラリアを旅したことも、企業的穀物農業を語るうえで役立っている、アメリカの大陸横断上の機内から、オガナラ帯水層の上につくられた灌漑施設・センターピボットの円形の畑を見て感激したし、コットンベルトのアイオワ州では一面のトウモロコシ畑をシカゴに向けてバスで駆け抜けた。オーストラリアでは、パースの近郊で、これまた360度見渡す限りの小麦畑を見た。超強大なコンバインも見ることが出来た。面白いのは、この辺の小麦は、日本に輸出されるものが多く、それも香川県の坂出港に運ばれる。讃岐うどんになるのだった。

これまで、いろんな旅をしてきたが、授業のネタとして経験できたことは大きい。特に、アフリカでの体験は大きい。牛は財産、羊やヤギは財布というアフリカの牧畜民の常識を、ジンバブエの公園で(買婚ともいわれる)「ロボラ」の話をカップルに質問した話なども含めて、社会科教師としての財産だと思っている。もう海外に行くこともないかもしれないが、特に地理のネタは十分すぎるほど集めた気がする。我が人生に悔いなし、といったところか。

2024年6月10日月曜日

大阪万博の裏事情

https://mainichi.jp/articles/20231204/k00/00m/040/131000c
大阪万博はぜひとも中止して欲しいと私等は思っている。先日交野市長の正論についてエントリーしたが、どうも夢洲に誘致したのは、Iという政党のカジノ(IR:万博会場に隣接している。画像参照)誘致ありき、ということがわかってきた。カジノへの反対は多く、インフラ整備のために表向き万博を利用しようとしたのだが、カジノの完成より前に万博が開催されることになったらしい。Iという政党の金儲け(利権)のための万博なのだ。

そもそも夢洲には、コンテナの積出港があって、常に大型トラックが行き交っている。橋とトンネルの2個所しか夢洲をつなぐルートがなく、万博開催後には、このトラックと乗用車による大停滞が予想されている。しかも橋は強風で通行止めの可能性があり、トンネルは先日の大雨で浸水し通行止めとなった。港湾関係者から、何度もインフラ整備の要請がなされていたのに、先送りしてとんでもないことになりそうだ。児童・生徒を無料招待したら、さらに停滞は加速するだろう。推測では阪神高速の中央線はすごいことになりそうだという。

全く何もいいことはない。おそらくこの不人気で、赤字が膨大な額に達し、府民や市民に負担が押し付けられる。こんな利権政党に府政が牛耳られていることが情けない。

2024年6月9日日曜日

学園のサッカー部 準優勝

学園のサッカー部が、結局強豪・K高校に3-0で敗退し、準優勝となった。前半までは0-0だったのだが、後半に3失点。うーん残念。

思えば、今学園の文武両道、質実剛健を最も体現するのがサッカー部である。たとえ準優勝であったとしても堂々とした成績である。胸を張って明石海峡を渡って帰校してくれたと思う。学園では、毎週月曜日は部活が休み。ゆっくり休んで欲しいと思う。さらなる奮起を願って…。

2024年6月8日土曜日

交野市長の正論

https://murata35.chicappa.jp/hosinomati/katanosi9901.htm
先日エントリーしたのだけれど、学園のサッカー部が決勝に進んだ。昨日は、授業の合間にサンTVの中継(YouTube)を見ていた。7番の昨年教えた子が見事にシュートを決め、均衡を破った。ワクワクしながら授業に行って帰って来てもういちど中継を見たら、3対1で試合が終わっていた。録画が見れたので、後半を見たら1点返され同点に。しかしその後2点を取って突き放したのだった。やったね。学園サッカー部。決勝も応援するぞぉ。

さてさて、今日はちょっと政治的な話になるかもしれないが、大阪万博に府内の公立学校の生徒を無料招待するという、一瞬聞けば良く聞こえる話に、すぐ隣の交野市長がノーを突きつけている。まず、安全面。万博会場はゴミ捨て場の人工島の上で行われる。先日ゴミから出たメタンガスの爆発があって、安全面が万全であるとは言い難い。特に小学校の生徒を引率する先生方の心労は耐えない。しかも、交通費は別なので、交野から、JRを使うにしても京阪を使うにしても、かなり経路は複雑でこれまた小学校の生徒を引率する先生方の心労は耐えない。観光バスをチャーターするのが一番だが、まず費用面でかなりの保護者負担が生じる。1人5000円という試算もある。しかも観光バスの駐車場からはかなり遠く、それだけでも大変である。市の財政で交通費を負担せよと言われても、すごい金額になり交野市にはとても負担できないと、市長は言い切った。

まさに正論である。無理をして万博を誘致し、人気がないからと、甘い話を持ちかけるも、全く現場を無視したポピュリズム。Iという政党がよくやる思いつき政策である。高校入試の際に大阪の公教育は終わったという感想を述べたが、高校だけでなく、今度は義務教(=小中学校の意)の世界にも無理難題を押し付けていく。こんなことを繰り返していくと、ますます教員志望者や管理職志望者は減少=質の低下が起こる。そういうシミレーションなど一切できない輩なのである。

能登半島の復興を差し置いて、万博に建設業者を集中させているとの情報もある。馬鹿げた話である。万博批判を並べればきりがないが、中止するのが最も良い方策だろう。なにもIという政党の面子をたてる必要などない。このような愚行を犯した政治家は退場すべきであると私は思う。

2024年6月7日金曜日

追憶 芸術鑑賞

https://www.wind-company.jp/unit/big-wind-jazz
学院では、今日の午後、学院の大ホールで芸術鑑賞が行われる予定である。芸術鑑賞についてもいろいろな思い出がある。

商業高校では、N市民会館で落語を聞く機会があったのだが、全30クラス。うるさくて、落語家さんが、最後にしかりつけたこともある。工業高校では、最初からそういう人間相手の芸術鑑賞は行わず、映画鑑賞、それも難しいものではなく、アルマゲドンなどストーリーが単純明快なものを見ることが多かった。これは大正解。(笑)

国際的かつ日本の古典芸能を尊ぶM高校では、国立文楽劇場で文楽を鑑賞した。これは眠かった。(笑)H高校では、D市民会館で、ジャズのスウィングを聞いたことが印象に残っている。(画像参照:こんな感じだった。)有名な曲が中心で、意外に生徒にウケが良かったし、十分楽しめたのを覚えている。

まあ、各校それぞれであるのだが、最後に、自分自身の高校時代の芸術鑑賞の話。クラシックの演奏(大フィルの交響楽だったように思う。)で、忸怩たる思いをした。楽章終了ごとに拍手をする同窓。実に恥ずかしい思いをしたのだった。何度も「拍手するな、最後まで待て。」と叫びたい衝動にかられたのだった。当時は、フォーク、ロック全盛で、クラシックはかなりマイナーだったし、そういう礼儀を知らなかったのも無理はないのだが…。

2024年6月6日木曜日

フーコーとマネの絵画

http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=273
「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」で、もうひとつ絵画の話が出てくる。マネの「フォリー・ベルジュール劇場のバー」である。フーコーは、15世紀以来の二次元のタブローから鑑賞者の目を逸らせ、三次元の表象空間に置き換えようとしてきた。この絵は見るものと見られるものとの間に自由な距離が置かれていると言う。この絵には、前述のベラスケス同様に鏡が描かれているが、こっちは画面全面を覆っており、不在の王はまさに不在。それどころか鑑賞者が占めるべき位置を指定する画面内の中心点も不在である。

しかも彼女を見つめるシルクハットの男性も彼女自身の後姿もありえない角度に歪んでいる。男性を見ていると思われる彼女の眼差しも視点が定まっていない。見るものの視点で、この彼女の眼差しは、焦らしているとも、誘っているとも、恥じらっているとも、あるいは放心しているともとれる。見る者と見られる者の視線の戯れ=駆け引きの空間をマネは現出させている。

この絵画を、高校倫理的に説明すると、自己(主体)と表象(客体)は、弓道のような動かない的ではなく、動き回る対象に対して、自ら距離をおきながら、間合いを取って相対するテニス、あるいは刻々と局面の変わる囲碁や将棋などのゲームのように、一方的に相手を対象として見るのではなく、相互に役割を交換しながら、その間の距離を見る、というものである。

デカルトのような表象を理性が認識するというのではなく、またハイデガーの世界内存在でもなく、メルロ=ポンティの可逆的身体とも異なる、フーコーの表象の見方であるといえる。だからこそ、狂気や監獄といったそれまでとは全く違う見方が現出してきたのだといえるだろう。

2024年6月5日水曜日

学園のサッカー部 頑張れ

https://cocorocom.com/school/article/267
3月末までお世話になっていた学園のサッカー部が、兵庫の県総体でベスト4まで勝ち上がっている。これまでの実力からいって当然であるが、7日に準決勝が行われるようだ。サンテレビで生配信もあるようだ。(11:00~)

教えていた生徒たちが、いよいよ実力を発揮する時が訪れたという感じである。今年の3年のサッカー部の生徒はおそらく短時間でも集中でき、効果的な勉強ができるのだろうと思う。頭脳明晰であることは、サッカーだけでなくあらゆるスポーツで有利である。ましてサッカーは、状況判断が極めて重要である。

大昔に、商業高校でサッカー部の顧問をしていた時、夏合宿で夜にバスケットをやった。すると意外にうまくフォーメーションが組めるのだ。サッカーはグランドが広く、運動量も多いので、そのバスケット的フォーメーションをいかにサッカーに応用できるかだと、主顧問が言われていたことを思い出す。

学園サッカー部、新たな伝統を今年も作ってほしい。がんばれー。

2024年6月3日月曜日

ポートランドの姉妹都市は?

https://www.city.sapporo.jp/kokusai/sistercity/portland65th_logo.html
K外大の留学生が2人、今日から学院でインターンシップをするとのことで、職員朝礼で紹介され、放送による朝礼でも自己紹介をしてくれた。1人はオージーでシドニー出身だそうである。もう一人は英語で自己紹介していた。耳をすまして聞いていたら、ポートランド出身らしい。

せっかくなので、地理総合の授業で、ポートランドについて紹介した。といってもあまり有名ではないので、地図を描いて場所を示した。西海岸・オレゴン州の州都である。ふと日本の姉妹都市の話をしようかと思った。大阪の姉妹都市はシカゴ。天下の台所と言われた大阪と穀物取引所があるシカゴは穀物取引つながりである、などと講じた。京都は古都。アメリカの歴史は浅いが、古都といえばボストンとなる。では、ポートランドの姉妹都市は?実は緯度つながりで札幌である。御本人に確認したら、もちろんご存知だった。

こういう脱線も地理の授業らしくていいかなと思う。今日の画像は、両市の姉妹都市提携65周年のロゴである。

2024年6月2日日曜日

キリスト教と関係が深い家畜

https://meiga-louvre.amebaownd.com/posts/7906470/
学院は、カトリックの学校であるから様々な宗教的教育が施されている。宗教科があるのもその1つで、生徒たちは一般の高校生に比べてそれなりの知識を持っている。先日の地理総合の授業の際、(ユダヤ教も含めて)キリスト教と最も関係の深い家畜は何か?という問いを発した。BS(ステップ気候)やCs(地中海性気候)の農牧業に関わる重要な問いでもある。

正解は「羊」である。正解を出したクラスもあったし、出なかったクラスもあった。学院の西門・小学校のところに、白い彫像のマリア像を礼拝する子どもたちの彫像があって、その傍らには子羊の彫像が置かれているのが何よりの証拠(生徒全員、納得。笑)だし、ヨハネ黙示録には、イエスは最後の最後に子羊として登場するのは有名な話(画像参照)である。(ヨハネの黙示録は授業でやっていないようだった。)もちろんアブラハムも本来は遊牧民(羊飼い)だし、ヨブもそうである。カインとアベルの逸話もある。

羊は、ラクダについで乾燥に強い家畜である。ユダヤ教・キリスト教の発祥の地であるBSやCsで家畜といえばまず羊なのである。地理の側面からいうと、こういう家畜の特徴は重要なのだ。

ところで、創世記の天地創造では、神は、「野に這う獣」と「家畜」を別々に創造している。イスラム教も含めた一神教はまさに遊牧民の宗教という特徴を持っているわけだ。これと関連して、昔、中田考氏がある作家の質問に答えていた記事を思い出した。「もし宇宙人が来たとして、イスラム法学・神学の立場では、まずどう考えますか?」「その宇宙人(=動物)を食べてもよいかどうかを調べる。」(笑)中田考氏は日本最強のイスラム法学者なので正しいのだろう。前述の創世記の記述の影響下にあるイスラム教のシャリーアをもとに、動物は、食べて良いものとたべてはいけないものに分かれるゆえに、宇宙人を見た場合、動物として思考的に処理するわけだ。まあ、ここまでは話していないけれど…。

2024年6月1日土曜日

フーコーとベラスケスの絵画

https://www.artpedia.asia/las-meninas/
「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」を読んでいて、この内容を理解するのに、デカルトの第一証明・第二証明・第三証明を知っていないと無理、カントの認識論(アプリオリな認識形式)を理解していないと無理という感想を持った。

フーコーは、ハイデガーをかなり読み込んだようだ。そこで「表象」という語が出てくるのだが、その説明に使われているのがデカルトの立場である。私は、これまでずっと、デカルトの3つの証明を高校倫理で教えてきた。第一証明はあまりにも有名で、教科書には書かれているが、第二証明(神の存在証明)と第三証明(物体の存在証明)は書かれていない。カントの認識論も同様で、最近の教科書には登場しているが、昔は実践理性批判(道徳形而上学)の内容が中心だった。高校生にも(ちょっと難解ではあるが)十分理解できる内容である。大学の教養課程で哲学を取ったら、こういった哲学書を読む機会があるだろうから、やはり必要な学習だと思う。

この章の最初に、『言葉と物』の冒頭に登場するベラスケスの『ラス・メニナス(従者たち)』という有名な絵画が紹介されている。(画像参照/拡大可能)この絵には、不在のままに全体を支える王の姿(王女の後ろの鏡にフィリップ4世夫妻がおぼろげに映っている。)が描かれている。フーコーは、この絵に重ね合わせて、ハイデガーが想定した、17世紀のデカルトと18世紀のカントの間に起こった主客の逆転を近世哲学史上の大きな転換点として肯定している。

高校倫理的な説明で言うと、デカルトは方法的懐疑でコギトを確立したが、その前に現れる表象=物体を神の被造物として証明した。(第二・第三証明)ちょうど”不在のままに全体を支える王の姿”は神である。しかし、カントの認識論には、もはや神の存在は要請されていない、という内容である。

この本、なかなか面白い。…つづく。