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ルターは、パウロの信仰義認説に長く苦しみながらたどり着いた人物で、真面目な司祭であり神学者であったといえる。ローマの雌牛と呼ばれたドイツで、サン・ピエトロ寺院の改築のためという贖宥状が出されたときも、その裏側(メディチ家出身の教皇レオ10世はかなりえげつない守銭奴である。これにフッガー家とマインツ大司教の野心がからむ。)を知らなかったし、95か条の論題を自分の大学の教会に張り出したのは、討論を希望するという、ごく一般的な慣例であった。この有名な論題はラテン語で書かれおり、対象は神学者であった。しかし、これがドイツ語に翻訳され活版印刷されたことで大事件となった。
ちなみに贖宥状は、十字軍以来発行されてきた。また今回の「すべての罪が許される」とされていたことをルターは批判した。カトリックでは、教会で懺悔するゆるしの秘跡が認められている。しかし懺悔だけで許されては、繰り返すおそれがあるので、教会は罰(深い祈り・巡礼・断食・寄付などの善行)を与える。もしこの罰を生前に償い負えなかれば、煉獄に行くとされていた。すなわち、贖宥状は教会からの罰を赦されるだけで、人間が犯す罪と神による罰を混同しているからである。贖宥状の本義を逸脱しているというわけだ。
日本では理解しにくいのが、当時の王侯貴族は当然ながらローマの権威を後ろ盾にしており、全員が血縁・親戚関係にあり、不如意ながらカトリックの敵となったルターを守ろうとしたのは、ザクセン選帝侯フリードリッヒ3世(画像参照)であるが、これは神聖ローマ帝国で権勢を誇っていたハプスブルグ家への反抗、権力闘争である。同時に聖遺物収集で有名だった彼は、ローマに自国の富を搾取されることに憤懣していたともいわれる。
ルターはカトリックにおける真面目な神学者であるが、エラスムスら人文主義の影響も受け、独身主義をやめる。また出身は上向思考の強い鉱山事業者でありながら、基本的には、王侯貴族側の人である。ドイツ農民戦争では、鎮圧側に回る。後のルター派は、領邦教会の設立を進めていく。封建領主の改宗=一般人も改宗という道をたどる。所詮、時代は近世。ルターの宗教改革は、自由な個人と不自由な共同体という社会類型の中での出来事である。
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