現場では、その内容の割に時間数が制限されており、いろんな声があるのだが、さてさてと、通勤電車の帰路、読み始めた。5時起きの身故、少し眠気が襲っていたのだが、読み始めるとふっとんでしまった。まずは、第1章の「黒船来航とリンカーン」の内容から。
なぜアメリカは、世界史でも珍しい武力による威嚇で日本を開国させたのか?よくある説明ではクリミア戦争(1952-56)の力の空白論で、他の列強が日本に手を出す余裕がなかったという説明だが、山内氏は英米の海洋航路の覇権をめぐる競争と見る。独立して70年という新興国アメリカは、大西洋航路で、NYとリバプールを結ぶコリンズ汽船(1000t以上・1000馬力・年間20往復が可能)を就航させ、1852年には50%以上多い船客と30%以上多い輸送量を誇っていた。このコリンズ船は設計段階から軍艦に転用させることが可能で、これを指導したのが、かのペリーである。アメリカの狙いは、全世界にネットワークを持つP&O(Pはペニンシュラ=イベリア半島、Oはオリエンタル)という海運会社への挑戦であった。太平洋航路へのアクセスでネックとなったのが石炭。その供給地(柳川藩の三池、福岡藩の筑豊、長州藩の宇部)として日本の重要性があったのである。…実に面白い史論。目からウロコである。
それに対し、後に日露和親条約を結ぶロシアのプチャーチンは徹底した対話外交で、伝兵衛や大黒屋光太夫ら漂流民を使ってサンクトペテルブルグやイルクーツクに日本語学校を作っており、日本語が使える人材も養成していたと佐藤氏は説く。この姿勢は、ロシア正教の伝道方法(相手国の言語、文化を学び、現地語で典礼を行い、聖書も翻訳するといった土着化を念頭に置いたアプローチ)からきている。幕末から明治中期にかけて日本で最も勢力を持っていたのは実はロシア正教会で、戦国時代のイエズス会を彷彿とさせる。日露戦争がなければ宗教事情も変わっていたかもしれない。ニコライは、日本の識字率の高さや宗教感覚を分析して心して臨む必要があるとし、聖体礼儀の際にも天皇皇后に栄えあれと(現在も)加えている。あくまで日本人の方から扉を開くのを待つ姿勢であった。ちなみにカトリックは普仏戦争でフランスが敗け海外布教は停滞していた。
プロテスタントの布教の中核はアメリカで、その戦略は科学技術や文物を教える「近代化に役立つ宗教」というロジックであった。札幌農学校が真っ先に浮かぶわけだが、外国人の62%がプロテスタントだった。ここで、佐藤は、アメリカの文化的特徴の一つとして、ロマン主義がないと指摘する。ヨーロッパではフランス革命の挫折後、普遍的なものはなく、固有の風土や歴史に根ざしたローカルなものでしかなく、人間の非合理な部分、自分でもうまく制御できない内面に目を向けているが、ちょうどその頃アメリカは開拓に忙しく「役に立つかどうか」というプラグマティズム的思考しか持たない。(チェコの神学者フロマートカは、亡命中アメリカ人は、ドストエフスキーもカール・バルトもわかろうとしないし、興味も持たないと指摘している。)「明白な天命」(マニフェスト・デスティニー)は、「自覚なき帝国主義」でその現代版が新自由主義であるとも。豊かになることが役に立つ、故に人類普遍的な正義であると、今もアメリカのメインストリームは信じて疑わない。ところが、内村鑑三や新渡戸稲造、新島襄などは、独立路線を歩んでいる。内村と新島はアマースト大学で学位を取ったが、「文学士」ではなく一段下の「理学士」しか人種差別でもらえなかった。「2つのJ」(ジーザスとジャパン)で有名な内村は「代表的日本人」、新渡戸は「武士道」を書き、日本人のアイデンティティを強く意識させる契機となった。…なるほど。
…第1章の忘備録つづく。
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