2023年4月1日土曜日

ボスニアの宗教事情

市立図書館で「ボスニア・ヘルツェゴビナを知るための60章」を借りたのだが、何度も読み返した「おどろきのウクライナ」の書評が長かったのであまり読めていない。とりあえず、最も興味深い宗教事情について整理しておきたいと思う。というのも、地理学習で、ボスニアの民族構成の中で「ムスリム」に分類される人々がいる珍しい地域であるからだ。本来は、「ボシュニャク」といわれるらしい。人口比は50.1%。ちなみに、国内のセルビア人はセルビア正教徒(人口比30.8%)、クロアチア人はカトリック(人口比15.4%)である。

11世紀から12世紀にかけて、東西キリスト教の競合で、ボスニアの中央部と北部はカトリックに、南部のフム(現在のヘルツェゴビナ)は正教会の影響下に入った。13世紀になると、ボスニアの領主たちはカトリックの司教を追放して、独自のボスニア教会を設立した。13世紀初めにボスニアに進出していたフランチェスコ修道会と共存し15世紀まで存続した。ボスニアの王はカトリックであったが、ボスニア教会にも正教会にも活動の自由を認めていた。このように中世ボスニアは、フランチェスコ会のカトリック、正教会、ボスニア教会の三者が共存していた。いずれの教会組織も組織は脆弱で教会も聖職者も少なく、大多数の民衆にとって縁遠い存在であった。

15世紀にオスマン帝国が征服すると、ボスニア住民のイスラムへの改宗が進む。(兵士や行政官となり良い生活と地位を得ようという非教義的な改宗。)これは強制ではなく、もとの三者の教会組織が脆弱で、強い信仰心をもたなかった人々が自然に受容したと考えられる。オスマン帝国進出後に消滅したボスニア教会の信者が多かったが、カトリックも正教徒もいた。セルビア正教徒は納税義務を果たす代わりに宗教的自由を得たし、フランチェスコ会は、オスマン帝国のスルタンの命により自由な活動を認められた。17世紀までは、イスラム・正教・カトリックの間での改宗は珍しいことではなく。村の集落単位でで三宗教が入り交じる複雑な人口構造ができた。

オスマン帝国支配後、カトリックのオーストリア・ハンガリー帝国は、1881年サラエボにローマによって任命された大司教座を置いた。以来現在もカトリックは、フランチェスコ会の2つの管区と、サラエボの大司教座による3つの管区が互いに重なり合うように存在する。1909年、ハプスブルグ政府当局は、ムスリムの宗教的自治を認め、政府が任命しイスタンブールのカリフが認可するウラマー(=法学者)長職が創設された。1924年トルコ共和国でカリフ制が廃止されると、ボスニアのムスリム自身によって選ばれるウラマー長がイスラム共同体の宗教指導者となり、カトリックの位階制さながらの組織を築きあげていく。セルビア正教では、1918年にセルビア、クロアチア、スロヴェニアに王国が誕生し、それぞれの王国内の主教区が統一されたので、ボスニアでも4つの主教区が統一され、サラエボに総主教座が置かれることになった。

ボスニア教会/フヴァル文書
https://ja.wikipedia.org/wiki/
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20世紀はじめまで、ユダヤ教をプラスした4宗教が対立や迫害の類がなかった。この宗教的寛容さは、キリスト教を受け入れる以前からの土着信仰的なものがあって、宗教を問わず病気治癒の泉などを尊んできたという伝統もあるようだ。

ちなみに、消滅したボスニア教会(ボゴミル)は、カトリックの分派とみるのが妥当。三位一体説や教会組織、十字架、聖人信仰、教会美術、旧約聖書の一部を少なくとも認めてるが、宇宙を善悪の二元論で捉える異端という見方もある。国際的なカトリシズムから離れ、修道院的組織からも離れた教会組織という定義もされている。

…地理で教えるボスニアの民族構成の「ムスリム」=ボシュニャク≒元ボゴミル(ボスニア教会)であるわけだ。

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