黄海海戦について改めて調べてみたが、日本側は、高速・速射砲主体の部隊と低速・重火力の部隊をわけて運用、それが海戦では成功し、旅順、さらに威海衛に逃げた北洋艦隊は、水雷艇や陸上からの攻撃に全面降伏した。制海権を得た日本は、大陸への派兵が順調に進み、勝利している。陸軍兵力、軍艦数で劣った日本が勝利したのは、国民国家化によって士気と練度の高い軍であったのに対し清側は軍閥の私兵(傭兵)であった故である。
この時代を俯瞰すると、世界的にも新興国(米独日)が国民国家を形成し台頭してきた時代で、アメリカは南北戦争後国家を統合が完成するとアラスカを購入、米西戦争でカリブ海、ハワイ、フィリピンに手を伸ばし、ドイツは普仏戦争後、ビスマルクがフランス包囲網を築いている。新興国がトップランナーのイギリスとどういう関係を結ぶかが世界史の方向性を決めた時代と山内氏は語る。
清は、戦費と賠償金のために西洋列強に巨額の借款をうけ租借地に取られ、切り取られていく。三国干渉で仏独露の中国進出が活発化する事態の中、義和団の乱が起こる。日本はイギリスの要請で兵を派遣鎮圧にあたる。北京公使館付き武官だった柴五郎中佐は、英語・仏語・中国語に精通しており、各国の意思疎通をを図り、籠城戦の総指揮を取るなど大活躍を見せた。イギリスは軍事力だけでなく、外交力、国際法の理解、信義を守る誠実さなどで日本を高く評価し、日英同盟を結んだたようである。当時ロシアとの中央ジアを巡る覇権争いなど、孤立していたイギリスは、日本を極東のシーレーン保持の同盟者に選んだといってよい。
…柴五郎も改めて調べてみた。会津藩出身で会津戦争時、一族の女性(祖母や母、妹など)は自刃している。陸軍士官学校3期生で秋山好古と同期。大本営参謀後、日清戦争出征。米西戦争視察。義和団後は、日露戦争出征。最終的に大将に親任された。退役、敗戦後、自決を図ったが老齢の為果たせず、その怪我がもとで死去。退役しながらも、陸軍軍人としての責任を痛感しての自刃だったのだろう。会津人としての差別に苦労しながら、また陸軍大学校OBでなかったが、大将にせざるをえなかった大人物である。合掌。
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