アーネスト・サトウの話も面白い。彼は、英国外交史最大の日本通で、西郷が好きだったようで、西南戦争時まさに出陣という時に鹿児島を訪れている。しかし西郷を警備する者が聞き耳を立てていて、西郷も別に大した話をしなかった。失望して帰京、勝海舟を訪ねると、「大久保と黒田清隆を辞職させたら内乱は終わる」と言い、今の政府は長州人と長州出身者の助けを借りている薩摩人から成り立っており、それが薩摩士族と戦っているのだと分析した。…なるほどである。勝もサトウも西郷側に友情を感じているわけだ。
佐藤氏は、ソ連崩壊に、ブルブリス国務長官から「今の世の中には三種類のエリートがいる。ソ連時の古いエリート、混乱期だから偶然出てきたエリート、未だ成熟していない未来のエリートである。」と語りかけられたという。「一番目と二番目は狼で、三番目は羊。あまり狼が腹が減っていると羊を食ってしまう。だから羊が十分育つまでに、狼には腹をいっぱいにしておかねばならない。我々は一定の利権や腐敗を許容しコントロールする必要がある。我々には未来を創る能力がないのだ。」言うなれば、明治新政府の高給取りの役人たちはこの偶然のエリートだったのだというわけだ。山内氏も成り上がり者というフランス語(パルヴェニュ)は「努力して到達するという語源から来ているが、当時の高官は、先輩の引きや死によって苦労せずにパルヴェニュになったものが多いと共感している。
この章の最後に、小松帯刀のことが描かれている。薩摩藩の若き家老として久光の信頼も厚く、藩論をリードしていたのは彼で、藩政改革、倒幕運動、武器商人グラバーや英国公使バークスとの折衝など八面六臂の活躍をしていたのだが、通風で動けなくなる。幕末史において特に重要な小御所会議に彼の代理として参加したのが大久保であり、彼の台頭は小松帯刀の病気がきっかけとなっている。久光もこの小御所会議に同じく通風で参加していない。倒幕穏健派の2人が通風で欠席したことが西郷と大久保の武力倒幕に進むことになったといえる。小松帯刀は、革命家へと自己変革し、国と時代を代えた逸材と山内氏は評価している。34歳という若さで死んでしまったが、明治の政治力学を変えたであろうと思われる、と。
0 件のコメント:
コメントを投稿