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日露戦争は、総力戦で、機関銃の使用が膨大な死傷者を生んだ。WWⅠを先取りしていた。日本海軍の下瀬火薬は大きな影響を与えている。発射後の煙や煤が少なく、早く次の照準をあわせることができ、日本海海戦の勝利に結びついた。ロシア側ではシベリア鉄道の開通で人員や物資の輸送を送り込んできた。この物量戦で戦費も莫大になった。日清戦争で2億円強だったのが、日露戦争では17億円(現在に換算するとおよそ6兆円)に達し、当時の国家予算の5~6年分に相当する。この戦費捻出にあたって、訪米した高橋是清にドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人・ジェイコブ・シフ(画像参照)が500万ポンドを引き受けてくれた。ロシアのボグロムへの反発やユダヤ系ネットワークによる情報で日本有利と判断したもあるのは必定だが、投機家としてロスチャイルドやロックフェラーに対して大博打を賭けてきたと見るのが正しそうである。
インテリジェンスの視点から見ると、日本の商社マンの各地の港からバルチック艦隊の情報を東京に伝えていた。日英同盟によって、グローバルな通信網を使えたのも有利に働いた。(当時の国際電話はイギリスが牛耳っていた。)無線についても日本が最新設備を駆使して日本海海戦を戦った。宮古島の漁師が石垣島まで170km船を漕ぎ、無線連絡したことも大きい国民国家化のエピソードである。
山内氏が「観戦武官」を話題にする。13カ国70人以上の軍人が日露戦争を視察している。有名なところでは、WWⅠのガリポリ上陸作戦(イギリスがオスマン・トルコのイスタンブールを占領するため陸海空の三軍を動員した上陸作戦、ノルマンディーのルーツとされる)で活躍したイアン・ハミルトン中将、在日米大使館駐在武官だったアーサー・マッカーサー・JR(D・マッカーサーの父親)、WWⅠで15万のドイツが40万のロシアを破ったタンネンベルグ会戦のプランを立案したマックス・ホフマン大尉。ホフマンは、日露戦争で撤退する時に奉天駅前で、第1軍と第2軍の旅団長が殴り合いをするほど仲が悪かったのを「観戦」していて熟知しており、同じ指揮官のロシア軍であったゆえに、第2軍を叩いても第1軍は来ないということを確信して作戦を立てたのではないかと山内氏。
日露戦争は、陸のロシア対海のイギリス・日本同盟の戦いであった。イギリスは太平洋への関与を縮小させており、太平洋に残された海軍大国は、アメリカと日本となった。日露戦争に勝利した日本は、このパワーバランスの変化・本質を明治以降の政府は十分理解できなかった。戦後、アメリカが好意的中立者という立場で門戸解放を唱え、アメリカ帝国主義の本丸ユーラシア大陸へ進出してくる。シフの援助も鉄道王ハリマンの満鉄共同経営提唱もよく見えてくる。イギリスから見れば、米独日という新興勢力がチャレンジャーであり、最も恐れたのは、アメリカとドイツが手を組むことであった。そこで、イギリスはアメリカと接近し、アングロサクソンという一体感を演出していく。日英同盟はやがて有名無実化し、WWⅠ後は四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約に組み込まれてしまう。むしろイギリスと日英同盟を強化、アメリカとのパワーバランスをとっていくべきだったのではないかという議論になっていく。
佐藤氏は、海洋国家にとって最大の脅威は海洋国家であり、江戸幕府が当時の最大の海洋国家で脅威であったオランダとの関係を注意しつつ維持していたことを評価。これが地政学的な「鎖国」の本来の意味であり、制限された開国であるというのが正しいと。スペインやポルトガルは領土的野心とともに普遍的なイデオロギー(カトリック)を伴っていたことで、極めて危険な存在であった。江戸から日露戦争までの日本は戦略性があった。しかし、日露戦争後一気に希薄になっていく、昭和の悲劇はこの戦争の意義を当の日本がよく理解していなかった故、と山内氏。大和も武蔵も大きすぎてパナマ運河を通れない、良くも悪くも世界戦略の存在がなかったと佐藤氏。…なるほどである。
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