2026年2月6日金曜日

正教会:祈りとしての神

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「祈りとしての神」について。今回の箴言は、「正教の精神は祈りの賜物にある。」(パシレイオス・ロザノフ)という短いが、意味深長なもの。

著者は、主教として、教会・機密(=秘跡:サクラメント)・聖書を、正教会の信仰に不可欠な条件としている。この中で、西方で展開されてきた聖書の批判的研究について、学問的研究(聖書学や歴史神学など)は疑いなく存在し、十把一絡げに拒否するべきではないが、正教徒として、その全てを受け入れることは出来ない。聖書は、孤立した個人として読んではならないし、起源や様式史また編集史についての最新の諸理論に照らして読んではならない。教会の精神(教会のメンバーとして交わりの中で読む)を最終的基準とし、教父や聖人たちによってどのように理解されてきたのかということを意識し続けるべきである。聖書を読むことは祈りへと続く道である、としている。

さらに3つの段階について述べられている。修徳的生活(徳の実践)、自然の観想、神の観想である。ここでは、自然の観想における神学的な話を期しておこう。すべての事象には神の造られざるエネルギアが浸透し、その存在が保持されていて、全ての事象は神の存在を仲立ちとして人に伝える「神現」(テオファニィ)となっている。それぞれ事物の中心には、神のロゴスによって刻み込まれた内的な原理すなわちロゴスがある。このロゴスとの交わり(神のエネルギーとロゴスを見出す)に入ることが重要である。

正教会の伝統を伝える霊的な師父は、神の観想の段階では、否定主義的な祈りを実践する。雑念を払い、「イイススの祈り」(主イイスス・ハリトリス神の子や我罪人を憐れみたまえ)を繰り返す。そうして、ペルソナ的一致に向かう。ハリトリスに似る者になったとしても、ペテロはペテロ、パウロはパウロ、フィリピはフィリピで、それぞれの者がそれぞれの本性とペルソナ的自己同一性を保つ。聖人たちが神化するのは、神のエネルギアによるものである。

出エジプト記(20/21)に、モーセがシナイ山頂の「神のいる濃い闇」の中に入ったという描写がある。神が闇であるとは言われていない。ヨハネの福音書(1-5)「神は光であって、神にには少しの暗いところもない。」タボル山でのハリトリスの変容も光で示された。東西を問わず、聖人たちは身体の栄化の例が多い。モーセはシナイ山から降りてきた時、顔が光り輝き、誰もまともに見ることが出来なかったので顔にベールをかけたとされる。(上記画像は、適当な画像が見つからなかったので、AIで作成したもの)

…正教会における神化は、朱子学の理気二元論と共通点がありそうである。もちろん、理とロゴスと同じものとは考えにくいが…。だんだんと正教会がヨハネの福音書を重視していることがわかってきたのであった。また「イイススの祈り」を繰り返す祈りは、仏教の題目やイスラムの信仰告白との共通点を感じるのであった。このあたりは、やはり「東方」を感じるのである。

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