2021年7月8日木曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅵ

現代哲学は、理性の哲学への反発から生まれている。マルクスは、労働こそ人間性を実現するという哲学の出発点をもつ。今や、社会主義は世界史の中の用語になってしまった感があるが、空想的社会主義も含めて、資本主義のアンチテーゼとして、資本主義の三大原理、その弊害、社会主義の政策の特徴と三段階で毎回教えている。マルクスは科学的に資本主義を研究し、法則性を提示したので科学的社会主義と呼ばれる。法則性のその1は、弁証法的唯物論であり、ヘーゲルの弁証法を学んですぐ教えるのが理想的だ。ただ、下部構造として、経済が歴史を動かし、上部構造(政治や社会、文化など)が変化する、という法則性を説明することにしている。唯物史観は今も生きているからだ。

これは、現在の歴史の教科書でも、政治の流れだけでなく必ず経済の進歩が時代ごとに必ず説かれていることからも、歴史学が唯物史観の上に立っていることを証明できる。例としてよく使うのは、エンクロージャーや農奴解放など土地経済から貨幣経済への変化が多い。こういうメタな事項が重要だと思う。高校の歴史は日本史も世界史も些細な項目の羅列で暗記科目となっているので、この場合はメタな視点を提供したいところだ。

マルクスでは、法則性その2で剰余価値についても説明をすることにしている。人間疎外の原因であるから、必要不可欠であると考えている。だいたい、教えている生徒を企業経営者にして、友人の誰かを雇うようなシチュエーションをつくる。商品の価格や友人の賃金なんかも提案させたりして、盛り上がるようにしている。こういう風にして説明すると、搾取の構造がわかりやすいからだ。

ショーペンハウエルと共に「理性」ではなく「意思」を重視する生の哲学では、やはりニーチェである。ニーチェの著作・『ツァラトウストラはかく語りき』は交響詩になっていて有名なので、(画像参照:これはカラヤン指揮の盤)このメロディーから紹介することが多い。ところで、哲学者の死に方という雑談を継続的に交えている。ソクラテスの毒杯を仰いだというところから始まり、ベーコンの大雪の中で冷凍の実験で肺炎になった話、カントの"Das ist gut."という謹厳実直な遺言も、ゲーテの”Je mehr Licht.”(もっと光を)と正反対のカーテンの開け閉めだった話とかであるが、ニーチェは最もひどい。梅毒である。ヒュームは懐疑論で無神論者と批判されひどい死に方をすると噂されていたのだが普通に死んだが、さすがキリスト教批判バリバリのニーチェである。

実存主義は、宗教的なキルケゴールとヤスパース、無宗教的なハイデッガーとサルトルにわかれるが、私の趣味でいうと後者である。昔「オペレッタ・ミカド’88~ミカドはジグソーパズルがお好き」という人形劇のシナリオを書き、演出・プロデュースした。国民を不特定多数の『ひと』に誘導しようして、皇太子ナンキプーによる革命が起こるというストーリーだが、猪瀬直樹の「ミカドの肖像」のオペレッタ・ミカドの話とハイデッガーの哲学を合わせた内容であった。ここでは、生徒に何故大学に行くのか?何故結婚するのか?何故茶髪にするのか?などという問いかけをするのが常である。

もっと好きなのは、サルトルである。「人間は自由の刑に処せられている」というアフォリズムは、私の生徒に対する基本的スタンスであるし、「実存は本質に先立つ」というアフォリズムは、ブディストである私にも極めてわかりやすい。さらに、実存の三段階については、毎回『典子は今』という映画の話で、即存在、対自存在、対他存在を説明する。サリドマイドで両腕がない典子さんは即自存在として生きることも可能だったはずだ。それが母の教育と自己鍛錬によって、対自存在として成長する。社会人になって、同じサリドマイドの友人を訪ねたところ、本人は自殺した後であったが、母親や兄を励ます存在になる。まさにサルトルの説く対他存在である。タイトルも、『典子は今』。その後に続く言葉は対他存在以外ありえない。私が倫理の授業で映画の話をするのは、このサルトルの時と、キリスト教理解のための『エレファントマン』くらいである。この時ばかりは、昔の浜村淳(よくラジオの深夜放送で映画紹介をしていた)となって映画の内容を説明する。(笑)

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