https://amaterasu49.media/archives/4394 |
大乗仏教の中心概念は、ナーガルジュナ(龍樹)の「中観」、世親の「唯識」、馬鳴の「如来蔵」の3つである。中観は、「空」という概念である。色即是空の空である。有るというのでもなく、無いというのでもないという概念だが、生徒と私の間にあるものとして説明することが多い。最も多い回答が空気。これは有る。信頼関係。嬉しいがもっと物理的に存在するものやで。正解は電波。携帯電話の電波、FMの電波…。有るけれど、この電波をとらえる機械がないと捕まえられない。無いわけではない。だが、見えない。空の概念はこの例が最も分かりやすい。つまり、人間の精神とは空である、というのが中観である。寝ているときは無に見え、起きて意識のある時は有に見える。死んでいるときは無に見え、生きているときは有に見える。だが、各人の精神は、年齢と共に肉体が変化しようとも、本質的に変わらない。空なのである。(この死においても空という概念が輪廻思想の原因となる。)
この空である人間の精神をさらに、深く洞察したのが唯識である。まるで、ドイツ観念論で教えた感性、悟性、実践理性、絶対的自我…といった掘り下げのような話である。目・耳・鼻・舌・皮膚で感ずる五識がまずあり、その下に意識(六識)、フロイドの唱えた無意識は末那識、さらにその下に阿頼耶識があるわけで、仏教は西洋哲学より、はるかに古いし深いことを教えたい。さて、仏教とは、仏陀になる教えである。仏陀になれる原因はどこにあるのか?如来蔵とは、如来=仏陀が蔵しているという意味で、唯識の阿頼耶識に仏陀になる因(仏性とか様々な言い方がある)があるという理論だ。原因と結果という縁起が貫かれている仏教において、この空な精神の最下層にある阿頼耶識に仏陀となる因が蔵しているというわけだ。
この三者の哲学を順を追って説明する事から大乗仏教の神髄を説くことが可能になる。中国で最も権威を持ち、日本の平安期に戒壇となった天台宗の教義に結びつくのである。西洋哲学では、人間存在とは基本的に有か無の二元論であるが、仏教では空が基礎概念となる。精神は空、肉体は仮(常に変化している)、そして精神と肉体は中として一体に存在しているとする。いわゆる「空仮中(円融)の三諦」である。私は、存在論としては仏教のほうがはるかに優れていると思う。
天台(比叡山)から、鎌倉仏教が生まれていく。日本の大乗仏教の基本はこれらの哲学にある。念仏とは本来仏を念ずることで、後に称名念仏などの易行に変化した。禅も天台の止観をルーツにしている。法華も最も重要さとされる経典である法華経を元に構築されている。
私は、これらの宗派を細かく説くことはしない。それ以前の重要なことを教えたいと考えてきたのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿