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ヘレニズムとヘブライズムを根っこにもつ西洋哲学の木は、イギリス経験論と大陸合理論、カント、ドイツ観念論そしてヘーゲルという太い幹を形成した。現代哲学はこの幹に反発したわけだが、(ニーチェにいたってはキリスト教を否定し破壊的な役割を果たしている)構造主義はその根幹を揺るがしたわけだ。この流れを一気に破壊的にしたのが、ポスト構造主義である。(ちなみにこのポストと言うのは単に後の意味で、構造主義と直接的つながりはない。)
フーコーは過激な哲学者である。近代社会が作り上げた物語を「狂気」という切り口から暴く。理性的という概念は19世紀以後のことで、思えば理性が確立されたがゆえに狂気というアンチ理性のテーゼが生み出された。思えば、19世紀以降の理性的視点から見れば、預言者・アブラハムなどは狂気の人ではないか。近代以後、理性による物語が形成され、理性的な尺度に収まらない人間は排除されてきた。しかも、これは権力によって強制されるようになってきている。ベーコンの「知は力なり」は、「知は権力なり」になったわけで、地は権力によって作られていく。まるで今回のコロナ禍を予期しているような言だ。
ドゥルーズは、コード(方向性)という概念で社会を分析する。近代以前は、神や王、父親といった権力をもつ者が他者を支配するという円錐形の社会であった。しかし、近代の資本主義社会では、彼らに代わりマネーが社会のトップにある。このマネーを獲得したものが権力を握るのだが、マネー自体は常に流動しているので、クラインの壺(非ユークリッドのメビウスの帯的な立体)型の社会となる。当然、権力はマネーの獲得に左右されるというコードだ。ポストモダンでは、こういった円錐型やクラインの壺ではなく、社会自体がコードを失い、各自がスキゾに、ばらばらの方向に走り出すとする。SNSの発達した現在を予測したものである。もう、パラノ(巨人の星やあしたのジョーのような根性もの)は流行らないらしい。(笑)
デリダは、ロゴスを否定する。私は男であるという時、私=男という意味だが、男という概念に含まれる全てが私に当てはまるわけがない。すなわち、最初の哲学者・タレス以来コトバで明確に述べてきたこと=ロゴスを否定するのである。このことは、この哲学の木自体の存在を否定するに等しい。デリダは、この木を形而上学と述べ一刀両断している。デリダも以前に、ウィトゲンシュタインも「語りえないことは沈黙せよ」と写像理論で哲学の限界を主張しているが、デリダは、脱構築する必要性を説いている。この哲学の木は、いわば模型であり、このすでに構築された模型をずらしながら固定化された概念を再構築する必要があるというのである。この脱構築、意外に私たちの周りにある。少し古い話になるが、ソフトバンクの携帯のCMで、上戸彩の兄は黒人であり、父は白い犬、というのがあった。常識をずらしていく手法だ。母は父の犬の勤める学校の校長であるとか、どんどんずらされていく。脱構築の説明にはうってつけである。
構造主義も面白いが、ポスト構造主義はさらに破壊的で興味深い。コギト(理性)の破壊、ロゴスの破壊にまで進んだわけだ。メタ的に振り返ると、西洋哲学の木はロゴスと神から生まれ、コギトを中心に大きく成長したが、朽ちて倒されようとしている。私は高校生に、この流れを伝えたかったのだ。
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