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私は、このア・プリオリな(=先天的)認識形式をできるだけ平易に教えることにしている。まず感性による直観形式の話。カントは理科の実験の仮説を立てるように、人間は認識において、まずビビッと感じる。服を買う時とか、異性を見て一目ぼれするとか、高校生目線で例を引く。その後実験して認識する。実際に服を着てみての友人の評価とか、実際デートするとか…。本来は、空間と時間で認識するとかややこしい話が出てくるのだが、これはちょっと触れるだけ。仏教の諸法実相・諸法無我のところで再認識させることにしている。
実験にあたるのが、悟性が担当するカテゴリーである。これは、プリントでは、カップに入った湯気の出ている黒い液体を書いている。黒い液体と言えば?という問いに、生徒はコーヒーとか、ココアとか、コーラといった回答をいくつかしてくれる。今までで想定外だったのが、石油と墨。大阪の高校生の面目躍如である。そんなものがカップに入っているわけないのだが。(笑)この想定されるもの中から、これは、コーヒーだ!みたいに当てはめるということを教える。もう一つの例は、先生を出すことが多い。学校で男の人が歩いている。感性がビビッと感じた。で、みんなは知っている先生の名前をカテゴリーから選び出し、当てはめる。これはかなりわかりやすいらしい。ただ、全然知らない人だと認識できないことになる。ここが重要である。つまり、カテゴリーは経験なのである。
このア・プリオリな認識形式の結論は、カテゴリーにないもの、すなわち経験していないものは、認識できないということになる。哲学的に言うと「経験的対象を構成する」ということになり、これをコペルニクス的転回というわけだが、重要なことは、カントは形而上学の先生だったことである。実証不可能な内容を対象とする形而上学を、純粋理性批判の中で完全否定してしまったのである。
実践理性批判は、このような形而上学を再生する試みと見る方がわかりやすい。私はここで、功利主義(ベンサムやJ.S.ミル)の善=幸福といった経験主義的道徳の話をする。カントにとって、これらは各人の経験を基盤にしており、客観性や絶対性を否定しているので許されるべき道徳ではない。道徳に関しては、感性や悟性ではなく、実践理性によって、経験を超えた世界=物自体の世界を基盤にした絶対的な道徳でなくては、というわけだ。これすなわち道徳形而上学であり、形而上学の再構築である。
ちなみに、この道徳形而上学の善意思が従うべき道徳法則については、試験では毎回自分の言葉で説明するようにしている。「汝自身の格率が常に同時に普遍的律法の原理として妥当するように行為せよ。」語彙は難しいが、授業では、いくつか例を出す。その中で、滑らない話シリーズのひとつ『大学時代のカニ先生の授業』というのがある。
カニというのは、しゃべっているとだんだん泡を吹くというW先生の特徴からついた仇名である。この授業、私は最初出ただけで、ずっと自主休講していたのだが、ふと出る気になった。教室に行くと誰もいない。これはヤバイと出ようとするとW先生が来られた。おお、久しぶりと声をかけていただいた。W先生の授業は、学生ではなく教室の後方の天井あたりに視線を置かれて泡を吹かれる。(笑)90分間、私は1人、一番前の席でこの地獄に耐えたのだ。この時は同じ授業を選択している友人たちを恨んだ。しかし、まてよ、自分も同罪ではないか。
世界中の人が、同時に自分と同じようなことをしてもいいかどうかを考えて行動しなさいというのが、道徳法則の主旨である。W先生の授業を登録者全員がサボった場合どうなるか?後で聞くと、お前もかということになって、次々とこういうカントの道徳法則を知らしむるための1人地獄の犠牲者が出ていたらしい。また、無人の教室で後方を見つめ泡を吹いておられたという噂話も残っている。…これは、ちょっと怖い。
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