復刊された本 |
カントは、民主制と専制は矛盾しないと述べており、内田氏もわかりやすくこう述べている。「民主制では多数をとった政治家たちが、つまり相対多数派の政治家が自分たちに与えられた期限内に民意と離れたことでも平気でやれるという欠点がある。そのために憲法があり、異なる時期に選出基準を変えて選挙をする両院制があり、少数意見に配慮する努力目標とする工夫がある。」さらに、ワイマール憲法下のナチの例を挙げ、民主制は専制の対立概念ではないとしている。
また、カントが専制の対立概念としてあげている共和制とは、法の制定者と法の執行者が別のものであることを挙げ、議員数削減や参院無用論、首相公選制などは、専制へとずらす反共和的政策であるということがわかる、とも。
さらにカントは軍隊の存在を認めていたが、老子の「兵は不詳(縁起の悪いこと・不吉なこと)の器なり。」という言葉と同様、軍隊は必要だが、使ってはならないと教えている。
一方、武道家としても有名な内田氏は、人間の中には生得的な暴力衝動や攻撃衝動が存在するが、そういう邪悪なものをリリースする工夫が必要で、「戦いの訓練」は、それをどう制御するかという技術的な知を獲得するためのものと主張している。
結論的な部分では、内田氏は明快にこう述べている。国会答弁を聞いていると、語彙がやせ細っている。論理性も軽んじられている。ここの政治的立場を超えて学者が安保法案に反対する運動を行っているのは、政治的な正しさを求めているというより、この法案の内容も立法手続きにも論理と知性が欠如しているからである。論理と知性は学者の生存の基盤であり、これをここまで軽んじられては看過できない。ここまで反知性的な政治家はかつていなかった。その反知性主義は明らかに意図的なもので、首相は一種の全能感に酔いしれている。すなわち、憲法に違反し、歴代内閣の法解釈とも整合性がなく、国民の過半数が反対しているにもかかわらず法案を強行採決するーそれができる自分の全能感に酔いしれている。不合理な政策を実施し、国民を不幸にし、国民に憎悪されても、その地位が侵されないという事実が権力者に最大の全能感をもたらすのである。
…内田先生の論には、いつもながら感心する。私がおぼろげに感じていた様々な「断片」が、見事に構成されている。さて、今回は、アウシュビッツでガイドをしていただいた中谷さんが語られていた事を述べておきたい。
無関心であること。考えないこと。無批判な”その他大勢にならないこと”が、さらに常に世界を見て、様々な知を求め、真実を求めようとする精神こそが、今日本人に求められていると私は思う。
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