2015年8月24日月曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 10

ビルケナウ絶滅収容所にて プラットホームのダヴィデの星
昨日のエントリーの続きである。難信難解ではあるが、内田樹先生の「私家版・ユダヤ文化論」の結論的な部分を記しておきたいと思う。それは、昨日の最後に記したユダヤ人を統合する”なにものか”とは何かという問いかけへの回答である。

ユダヤ人は言うまでもなく優秀である。ノーベル賞受賞者の統計だけ見ても、異常な数値である。ユダヤ人はどうしてこれほど知性的であるのか。内田先生の師・レヴィナスは、「ユダヤ人の例外的知性なるものは民族に固有の状況がユダヤ人に強いた思考習慣、つまり歴史的に構築された特性である。」(サルトルの社会構築主義)また「民族に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し、涵養せざるを得なかった特異な思考の仕方の効果である。」という指摘を退けている。

1933年から1945年にかけて、ユダヤ人は、完全に神に見捨てられるという例外的な経験をもった。「イザヤ書」53章に書かれてある通りのことが身に起きた。イスラエルは再び世界の宗教史の中心におのれの姿を見出した。反ユダヤ主義はユダヤ人をその「究極的な自己同一性」に召喚した。その点においてユダヤ人は「彼らのためにだけ取っておかれた特別の憎しみ」によって迫害された、ホロコーストはユダヤ人たちに忘れかけていた聖史的召喚を思い出せた。この受難をレヴィナスは、偶発的な災禍とは考えない。ユダヤ人がこの世界で果たすべき民族的な責務のゆえの必然である、そのためにユダヤ人は諸国民の中から選ばれたと考える。ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない、神はそのためにユダヤ人を選ばれたのである。「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを呑み込むために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。

サルトル的な社会構築主義の立場をとるにせよ、レヴィナス的な「選び」の解釈をとるにせよ、ユダヤ人の側にはユダヤ人であることを主体的決意に基づいて選ぶ権利がなかったといえる。これが、ユダヤ人とはある種の「遅れの効果」だと言えるのである。これをレヴィナスの術語で言えば、始原の遅れという。そのつど遅れて世界に登場するもの、これこそユダヤ人の本質規定である。この覚知こそが「ユダヤ的知性」の起源である、というのが内田先生の結論である。(と思う。)

これ以上書いても、まさに難信難解。ホロコーストがなぜ起こったか?内田先生の結論は、レヴィナスのいう「ユダヤ人故の必然」ということになる。(と思う。)
http://toshiworks.asablo.jp/blog/cat/bible/
…長く、私は旧約のヨブ記の意味を考えていた。レヴィナスと内田先生は、ヨブは合理的に思考する近代人の祖先であるとする。(ヨブの)他者に対する友愛と有責性、人間の人間性を基礎づけるものをユダヤ教は「人間の始原における遅れ」から導き出そうとしている…。うーん。ここまでかな。

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