ビルケナウ絶滅収容所にて |
結論にいたる過程における議論、特にユダヤ人とは何か?という問いかけに関しては、なんとかなるかもしれない。今日のエントリーは、そのことに関して僭越ながら”私の私家版”的整理である。
前半部で、内田先生はユダヤ人は、国民名ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。という3点から、ユダヤ人という語を定義できないことを述べられている。そればかりか、そのユダヤ人という語の辞書的な語義(de'notation)とは別に、人々が暗黙のうちに了解している「裏の意味」(合意:conotation)=異教徒・神殺し・守銭奴・ブルジョワ・権力者・売国奴などの敵対的侮蔑的な合意が込められており、中立的・指示的な意味でユダヤ人という言葉を用いることはほとんど不可能である、と述べられている。
特にユダヤ人=ユダヤ教徒であることの否定に関して、内田先生は極めて示唆的な論を展開されている。
近代市民革命による「ユダヤ人開放」以後、かなりの数のユダヤ人がキリスト教に改宗したが、いかなる宗教を信じていようといまいと、ユダヤ人であることを止めることができなかったことを、ニュルンベルグ法とホロコーストは教えた。
ユダヤ人=ユダヤ教徒であったのは、近代以前までのことである。これは、ユダヤ人へのキリスト教への改宗の要求をユダヤ人が拒絶するたびに暴力が振るわれ、差別的な待遇を受け苦しんでいる事実そのものが、ユダヤ教徒には神の呪いが下っている動かぬ証拠と見てキリスト教の真理性を証明していると考えられてきた。
これは、フーコーが「狂気の歴史」で狂人の社会的機能について示した知見に通じている。狂人が中世の人間的な景色の中に親しみ深い姿で現れたのは、彼らが神の呪いの物的証拠だったからである。狂人も障害者も貧者も、正しい信仰を持たなかった者たちへの神の可視的表現とされ、逆説的に神聖なものとされた。それと同じロジックでキリスト教国内のユダヤ教徒の存在も正当化されてきた。
近代のユダヤ人開放は、狂人がその聖性を失う歴史的趨勢とほぼシンクロしている。啓蒙思想家は人権尊重の大義を掲げたが、ユダヤ人に公的にユダヤ教を放棄することを求めた。これは、ユダヤ人を統合している”なにものか”があり、それは近代市民社会の統治原則とは相容れないという理解である。近代市民社会の統治原則を根本的なところで損なう可能性のあるものをこの社会集団が有しているという漠然とした気分が、この「開放(の)ロジック」そのもののうちに漏出している。
ユダヤ人とは国民国家の構成員でも、人種でも、宗教共同体でもない事実、「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けていたこと…。
これら、ユダヤ人を統合する”なにものか”とは何か?ここからが内田先生の師・レヴィナスの論を用いてユダヤ人の本質に迫って来るのだが、前述のように、これが極めて難信難解なのである。…と、いうところで、今日はここまでにしておきたい。
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