2012年7月21日土曜日

京大アフリカ研'12公開講座7月

厚い雲の東山と 稲森財団記念館
集中豪雨というよりは、『スコール』と呼ぶにふさわしい雨に見舞われた。月イチの京大公開講座に行こうとした時のことである。Tシャツがびしょぬれになってしまい、枚方市駅のユニクロでポロシャツを買うはめになったのだった。幸い、京都に着くと雨はあがっていた。そんな天気だったのだが、会場は満員。私も今日の講座には思い入れがあった。平野(旧姓:野元)美佐先生の『都市の「商人」に出会う』である。都市の文化人類学は、ブルキナでお世話になった荒熊さんや、 小川さやかさんのタンザニアのマチンガの話をエントリーで何回か書かせてもらっている。農村や遊牧民の話も大好きだが、アフリカの都市の話も大いに興味があるからだ。

今日の講座の舞台は、カメルーンである。カメルーンというと、有名な独裁者ビヤ(11年10月22日付ブログ参照)大統領のデモクレイジーの話、英語圏の住民の反政府活動の話など、サッカーが強いこと以外にあまり良いことを聞かない。平野先生のカメルーンとの出会いが面白い。本当はナイジェリアに行く予定が治安が悪化したため、急遽カメルーンに行くことになったという。ホント人生いろいろ=島倉千代子である。首都のヤウンデで、平野先生は『バミレケ』と呼ばれるインフォーマルセクターで活躍する人々と出会う。この『バミレケ』と呼ばれる人々、いわゆる民族名ではない。カメルーンの西部、英語圏の南西部州・北西部州とイスラム王国を築いていたバムンと、良く似た文化をもっているが、植民地下で、一括して『バミレケ』とされた地域に住む、あるいはルーツをもつ人々ということになる。面積は山口県くらいで、大小100以上の首長制社会に分かれている。言語も十数種類におよぶのである。このバミレケランド、人口密度が高く、植民地時代から都市部やプランテーションへ若者を多く送りだしてきた。一子相続制ということもあるだろうが、中国同様の『人口圧』という構造があるのだろう。ヤウンデやドゥアラといった都市では多数派(50%以上)である。都市では彼らは自らを『バミレケ』と自称する。平野先生から「他のエスニックグループからは、(悪意も含めて)カメルーンのユダヤ人と呼ばれています。」と説明があった。努力家で人の嫌がる仕事もこなし、成りあがっていく隙間産業的な商売に精を出しているようだ。全員が商人を生業にしているわけではないが、他の人々からは、よそ者的イメージ、ケチで打算的でずるいといったイメージがあるらしい。

調査地バングラップ首長の写真入り葬儀服
アフリカの農村と都市の移動や「情の経済」については何度もエントリーしているのでふれないが、このカメルーンの『バミレケ』の人々は都市で相互協力関係を構築している。同郷の村ごとに「トンチン」と呼ばれる頼母子講(たのもしこう:一定期間に決められた金額の現金を出し合い、うち一人か数人が全額を受け取り、全員が一回りするまで定期的に繰り返す庶民金融)を行っているのである。強制的な貯蓄ともいえる。同郷会では頼母子講が重要な位置を占め、富裕層から庶民まで高額から低額まで様々な講が設定されているのである。さて、アフリカ的な知である。平野先生はこう言われた。「個人が資産を蓄積することは、非難され呪術的な攻撃もありうるが、頼母子講は金融というより贈与であるとされる。親族からのたかりの対策でもある。頼母子講にお金を出していて今はないと言えば、恨みをかうこともない。また同郷会の集会所には、1Fに大統領の写真が飾られているが、2Fには首長の写真が飾られている。頼母子講は(同郷の地縁・血縁関係をバックにした)信頼関係によって強固なものになっている。」…なるほど。面白い。なお、質問会で、この頼母子講文化は、『バミレケ』だけのものではなく、前述の英語圏やバムンにもあることがわかった。また政治的に『バミレケ』の人々は表だって動いていないが、反政府的な英語圏の人々を支援しているらしく、”アングロ=バミ”と揶揄されているとか。

都市で成功した『バミレケ』の人々は、故郷の村に豪邸を建て自らの成功を示威しつつ、村への貢献を全く厭わない。(村に残る人々からは有難迷惑の貢献もあるらしいが…。)今や、Nde県(平野先生の調査地)の5/13人の首長は都市出身だそうだ。首長の代替わりの様子も教えていただいた。興味深い話だったが残念ながら長くなりすぎるので、この辺でご勘弁願いたい。

小川さやかさんの研究が、「商売の狡知」を探る、インフォーマルセクターの極めてミクロな立場からの研究であるのに対し、平野先生の研究は、もう少しマクロな立場からの構造的な研究なのだということがわかった次第。いやあ、実に面白かったのである。

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