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「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第9章から第10章にかけて、マンデラの哲学が描かれている。マンデラは、アパルトヘイトが終結(1991年)し、全人種による選挙(1994年)後に「真実和解委員会」を設置した。この議長に聖公会大主教のツツを据えた。委員会は、人権蹂躙を行った人物と団体を訴追する一方で、人種間の対話と和解、赦しを訴えた。1990年の暫定憲法では、「過去の違法行為については、いまや復讐ではなく理解の必要性、報復ではなく補償の必要性、不当な犠牲ではなくウプントゥの必要性に基づいて処理することができる。」と書かれている。1995年から2000年まで、この委員会は活動を続け、政治犯罪を究明し、遺族に思いを述べる機会を与え、必要なら補償を行う。過去の責任を明確にして記録することが目的であった。「処罰より真実を」という方針で、白人の差別主義者側だけでなく、解放活動側の政治的暴力や内部抗争における暴力事件にも、同じ基準で真相の解明を行った。また委員会は、犯罪行為を殺人と拷問に、犠牲者を政治活動の闘士に限定した。加害者にはその犯罪行為の真実を証言した者に恩赦を与えた。この方針は、キリスト教的な伝統、すなわち懺悔と修復的司法の結合を感じさせる。
マンデラは、昨日記したように、逮捕前は武装闘争を計画・準備していた。1951年当時のマンデラが所属していたANC(アフリカ民族会議)では、マハトマ・ガンジーやM・L・キングの影響を受け、非暴力主義を掲げていたのだが、マンデラは道徳的原則からではなく、戦術面(非暴力の効果はあまりなかった故)から暴力闘争を選び、MKの司令官となったのである。マンデラの「和解と赦し」は、非暴力からの単純な帰結ではない。
…JICAの教員研修で、初めてのアフリカであるケニアを訪れた際、お世話になったコーディネーターの故ピーター・オルワ氏が、帰路のナイロビ空港で別れる時「レインボーだよ、レインボー!」と大声で叫んでいたのを思い出す。この”レインボー”は間違いなく、マンデラの「虹の国」を意味しており、「アフリカの未来は明るい。」という趣旨を込めて私たちに送られたメッセージだったと確信している。あれから20年以上のの月日が流れた。…つづく。
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