セゼールは、西インド諸島南部のマルティニーク島(現フランスの地方行政区画)出身。頑強に抵抗した現地人はフランス軍に征服され壊滅し、サトウキビ・プランテーションのため、アフリカ系奴隷が輸入された歴史をもつ。フランス革命時はロペス・ピエールが奴隷制度廃止を決議したが、ナポレオン時代に妻のジョセフィーヌが、娘の島出身だった故に西インド諸島の奴隷制を復活させたらしい。(ジョセフィーヌにはその責任はないらしい。)1848年の2月革命で、奴隷制が廃止された。セゼールの家庭は、アフリカ系中産階級に属しており、1931年に奨学金を得て渡仏、高等師範学校に学ぶ。ここで、同じ島出身のダマス、セネガル出身のサンゴール等と出会い、フランス語で「黒人学生」という雑誌を刊行、白人による差別の中、アフリカ起源の人間であることとそのアフリカ性を自覚していく。彼が、影響を受けたヨーロッパの知識人は、ベルグソン(プロティノスという古代アフリカの哲学者に深く影響を受けていた故にアフリカ的発想をしていた)であったという。WWⅠ後、アフリカ人の発言権が強まり、汎アフリカ会議や、ホー・チ・ミンの植民地同盟の結成もあった時代である。
セゼールは、故郷に戻り教師となり、1945年に故郷の首府の市長になる。植民地を制度的に本国に同化する県化法を起草しながらも、文化的なフランス化を拒否する立場をとり、この経験を元に1955年に「植民地主義論」を記した。この著作は、アフリカ大陸で影響力を振るうことになる。
人種主義とは、キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を立て、植民地支配を正当化しようとする、何より哲学的な営みであると指摘する。そして、ナチズムは植民地主義を白人同士で適用したものに過ぎないと、近代の西洋哲学の枠組みそのものを鋭く批判した。欧州はもはや弁護不能であり、自分たちの問題を解決できない文明として衰退仕切っていると断言した。
白人がしばしば偽善的に主張するように、植民地化は、福音伝道でも、博愛事業でも、無知や病気を暴政の支配を交代させる意思でも、神の領域の拡大でも、法の支配の拡大でもない。植民地化は、略奪と金儲け、支配という欲望を暴力によって推進すること以外のものではない。西洋諸国は、そうした暴力的欲望を他の国との競争の中で、世界規模まで拡大したというだけである。
しかし、彼はこうした暴力的欲望の発揮そのものは植民地化ではない。1511年にアステカを崩壊させたコルテスもピサロも自分たちの略奪と殺戮を何か高潔な目的のための先駆けなどと気取りはしなかった。植民地化とは、その後にやってきたおしゃべりな人間たちの衒学(げんがく:ひけらかす)的態度から生まれてくる。キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を現地の人間に信じ込ませ、自らも信じ込むことこそが植民地化の本質である。したがって、植民地化とは思想であり、異文化同士の相互交流が文明であるとすれば、文明と無限の隔たりのある野蛮であり、植民地支配者を非文明化し、痴呆化・野獣化し、品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を倫理的二面性を呼び覚ますものである、と。
…ある意味胸がすくほどの強烈な植民地主義批判である。私が最も興味深かったのは、前述のナチズムの話である。「白人たちがヒトラーを許さないのは、ヒトラーの人間に対する罪ではない。それまで、アラブ人、インド人、アフリカ人にしか使われなかった植民地主義的なやり方をヨーロッパ人に適用したからである。白人はナチスと同じことを長年にわたって非西洋人に、とりわけアフリカ人に行ってきた。ナチズムのユダヤ人虐殺の野蛮を嘆き悲しんでみせる西洋人の態度は欺瞞に過ぎない。ユダヤ人も白人の一部としてアフリカへの直接的・構造的暴力に加担してきたからである。この批判の言葉を吐く権利がアフリカ人にはある。」…これ以上の西洋批判は存在しないと著者は記している。私も同感である。アフリカという第三の視点「知の三点測量」から歴史を、哲学を見る、というこの本の試み(9月11日付ブログ参照)はこの時点で成功していると思う。
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