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パントゥの叡智は、認識する力は神から与えられた力であり、真の知識は形而上学的(=神との関係)であることの自覚からなっている。知恵と知識は、この存在=生命力についての知識に他ならない。祖先たちはこの知恵に従って生きてきたし、占いのカタチで叡智を伝えてきた。神話に基づく伝統や通過儀礼などの儀式は尊重される。
ムントゥは生命力であり、人格の力である。ムントゥは周囲に価値ある効果、すなわち生命力を増強させる効果を及ぼすが、弱まったり強まったりする。アフリカでは個人はムントゥを有し、最も親しい仲でも不可侵の存在とみなされる。個人としての条件は、可視的で身体を持ち、息をして、影が生じ、名前を持っていることである。ムントゥには、3つの名前がある。部族(クラン)における個人の名前で、亡くなった親族の生まれ変わりとして、本質的・不変の生命の名前がまずあり、他人(祖先からの継承、割礼の儀式や占い師、首領)からつけられた名前、さらに自分自身でつけた名前である。子どもは祖先の生まれかわりだが、同一視されることはない。こどもの守護となる。生命は神からの贈り物という点では、ユダヤ・キリスト教的な伝統と同じだが、神との契約関係はない。
パントゥの倫理観・道徳観は、ユダヤ・キリスト教的な伝統の十戒や人権の原理と大差ない。善悪は生命力を高ずるものと減ずるものとしての存在論とムントゥの原理に基づいて解釈される。神、祖先、死者、年長者は生命力を減じるものではない。悪とは生命力を損傷することにあり、倫理観で重要なのは、その損傷を回復することである。法的な賠償も、この生命力の回復という文脈に置かれるので、懲罰的ではなく、補償的なものとして機能する。神や先祖、年長者への過ちは賠償ではなく、高次の生命力を認識することで償われる。共同体において悪が生じた場合、懲罰よりも関係性の修復=生命力の回復が重視される。西洋的な懲罰・罰金・懲役などとは異質である。
…京大の公開講座で、名前については、新生児に、その年にあった事件(旱魃とか洪水など)をそのままつける場合も多いと聞いた。ケニアでは、死者は必ず出身地に葬られる。ナイロビから地方に向かう、同郷の知人が大勢乗った埋葬のトラックを何度か見た。クランとの結びつきは、東アフリカでも強いと思われ、この「パントゥ哲学」は、私の知っているいくつかのアフリカ事情とは合致している。また、個人の条件についての箇所で、「影が生じる」などというのは、中世ヨーロッパの魔女裁判的で実に興味深い。
…とはいえ、この「パントゥ哲学」は、はたして「アフリカ哲学」と呼べるものなのか。これが、これ以後の「アフリカ哲学全史」の流れになる。私は、どちらかというと文化人類学的な内容に思える。アフリカの思想を紹介した事自体は大きなことだと思うが、タンベルはやはり西洋人宣教師であって、最終的にはカトリック信仰の必要性に結びつけていくのであるが、さすがにいただけない。
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