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その中心的論題は、武装闘争の是非といってよい。マンデラは逮捕以前に、エチオピア、ザンビア、エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリアを訪問し、アルジェリアが、アフリカ大陸最大の白人人口を抱えていたことに南アとの共通点を見出し、アルジェリアの独立に寄与した前述のファノン(10月6日付ブログ参照)の思想の影響もあったのだろう。1962年、エチオピアでMK(民族の槍)の3ヶ月の軍事訓練を行い、帰国直後に逮捕され、MKの存在が知られ国家反逆罪で終身刑となる。よって、マンデラは、当初武装闘争を考え、準備していたのである。
ファノンの影響を最も強く受けたのは、ピコである。彼は、ダーバンの大学医学部で学んでいた。この点でもファノンと共通性がある。彼はマンデラが投獄された1962年から1990年の間、南アの反植民地運動を牽引する中心人物で、南ア学生機構での演説で、「マーチン・ルーサー・キングと比較して私たちはマルコムX(公民権運動の急進派指導者)の説法を気迫のあるものと感じるし、はるかに私たちが考え感じていることに一致していると思う。」と述べている。ただし、1973年以降は彼は政治活動を禁じられ、ソウェト蜂起(1976年:中学高校でアフリカーンス語=オランダ系現地生まれの白人言語を強制されたことへの学生による暴動で500人以上の死者を出した。)を指導できなかったのだが、1977年彼の思想を恐れた治安当局は不当逮捕し、獄中の尋問によって脳挫傷となり搬送中に死亡した。(画像は葬儀の模様)
彼の思想で特徴的なのは、一見すると黒人の開放に好意的に思われる白人リベラルに対する強い不信と批判であった。彼は、「白人リベラルは、自分帯の権力欲に気づいてないふりをしている恥知らずである。」と述べており、「白人の最大の武器は、劣等感と恐怖を埋め込まれた黒人の心である。アフリカ人は学校で植民地主義的な教育を受け、自己の伝統を憎悪することを学び、劣った自己イメージを流し込まれている、」と強烈な批判をしている。
また、「ヘーゲルの弁証法に基づけば、テーゼ(正)は白人人種主義、それに匹敵するだけのアンチテーゼ(反)は黒人の強固な団結である。南アが白人による黒人に対する集団的搾取の恐れのない、両者が仲良く共存する国になるとすれば、それは、これらの二者の敵対者が影響を及ぼし合い、諸観念から実行可能なジンテーゼ(合)を創り出し、両者の妥協の帰結としての生活様式を創り出したときのみである。」と、奴隷と主人の弁証法は、奴隷を道具として見なしている以上、植民地的な現状では、そうした弁証法は全く存在しない、と指摘している。白人リベラルにとっては、テーゼがアパルトヘイト、アンチテーゼが非人種主義であるが、ジンテーゼは非常に曖昧な柔らかな人種主義に他ならないわけだ。
ピコは、マンデラ不在の間に、黒人意識を独自に展開し解放運動を牽引した。マンデラは、ピコの人生を回顧する著作に寄せた賛辞のなかで、「スティーブン(=ピコ)は南アの民主化に貢献した勇敢な指導者たちの銀河系の中で生き続けています。私は彼と会う機会はなかったが、刑務所から私たちは彼の功績を追い、黒人意識運動の勃興に寄り添っていました。」と功績を称えている。著者によれば、マンデラ自身を含め特定の個人崇拝にいたらないような配慮ある表現となっていると記されている。
…さすがマンデラである。さて次回は、反アパルトヘイトの哲学・後編で、マンデラの話になる。ところで、ソウェト蜂起の話が出てきたが、私は南ア・ヨハネスブルグ郊外のソウェト蜂起の博物館をゲストハウス主催のヨハネスブルグ・ツアー(アパルトヘイト博物館・黒人居住地のソウェト・呪術の店など)で訪れている。ソウェト蜂起のことは今回詳しく調べることになった。当時は不勉強で、展示も全て英語だったし、正直なところ、あまり印象に残っていない。ただ、最初に撃れて亡くなった子どもの場所には記念碑が立っていて、合掌したことだけは覚えている。
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