彼は、1925年マルティーク島で、インド系の父と、白人と黒人の混血である母の間の中流家庭に生まれた。当然ながら、マルティークなので、セゼール(10月1日付ブログ参照)の影響を受けている。とはいえ、セゼールが1939年に帰島した時点では14歳。18歳になった1943年、ド・ゴールのフランス解放軍に入隊し、レジスタンスや志願兵として転戦、負傷する。人間の自由と尊厳という理想のため参戦したが、人種差別と卑小なナショナリズムに直面する。マルティークでは、WWⅡの期間中、約2000人のヨーロッパ人が身を寄せていたが、フランスが敗北すると剥き出しの人種主義を黒人に示したという。終戦後、セゼールの選挙の手伝いをした後、退役軍人として高等教育の資金を得、翌年フランス本土に留学、リヨン大学で医学、精神医学をに学ぶ。このころ、哲学に強い関心を持ち、ヘーゲルやサルトルの影響を受け、現象学のメルロ=ポンティの講義にも出ている。
人種差別は、マルティークより本土の方が深刻であった。1851年精神科医の資格を習得。研修を経て、1953年にアルジェリアの首都から南西50kmほどの都市の精神病院の医長となる。ここで、ヨーロッパ人女性やアフリカ系男性の治療と分析を通して、彼らが植民地主義の犠牲者であり、被差別民族や被植民者の心理的問題の理解のため、過去のトラウマを分析する必要があった。56年にはこの病院を辞し、アルジェリア民族解放戦線(FLN)として活動、医療活動と医療改革を進めながら国際舞台でのFLNのスポークスマンとして活躍、1961年「地に呪われたる者」を発表後、白血病で死去。アルジェリアが独立したのは翌年のことであった。
「黒い皮膚・白い仮面」は精神科医として、白人の人種差別の眼差しから黒人に負の影響・劣等感が生まれ、非難の声を発する時自己疎外が起こると分析、これを開放しなければならないと主張した。これらの精神病理学的な黒人のメンタリティは、個々の問題ではなく、奴隷制と植民地化という歴史的・経済的状況から生じており、劣等コンプレックスの内在化によって生まれる。一方で、ヨーロッパ人に有効な治療法は普遍的ではないことも学んでいる。
遺稿となった「地に呪われたる者」の第一章は「暴力」であり、極めて多くの議論を呼んできた。いかなる表現がなされようとも非植民地化は暴力的な現象である、西洋による植民地支配は巨大な暴力である。原住民は、他者からこの暴力を内在化して、同胞を攻撃し合う一方で、自分たちの攻撃性を抑制してしまう神話と魔術の世界へと逃避している。こうした秩序を変え、植民地という社会を解体するのが、非植民地化というプログラムである。よってこれを覆す人類史上の歴史的な過程であり、このプログラムを実現しようと決意する者は常に暴力をもつ必要がある。セゼールの「奇跡の武器」という詩を引用し、サルトルが「序」を寄せて、ファインのカウンター・バイオレンスを正当化した。対他存在を主張するサルトルらしい話だが、著者は、サルトルは、黒人と白人の決定的な非対称性を見逃しており、ファノン自身は白人文明を否定しつつ、自己の黒人性をも否定している。自分がフランス語しか解さないインテリで植民地主義の申し子であるからである。自分は黒人である権利を持たない故にその内実を欠いた存在として、その空虚さを通して初めて人間性を見出すと考えている。サルトルの賛辞は、そういったファインの思想抜きに語られていると批判的だ。
もう一人、この「地に呪われたる者」を批判した哲学者が登場する。アーレントである。読んでいると、まるで、学級会でお嬢さん然とした子が、暴力反対の正論を述べているだけのように感じた。アーレントの論文には植民地化された人間たちの苦悩や憤怒に共感する叙術は殆ど見当たらないし、無理解にすぎると著者は記している。…全く同感である。同じユダヤ系でありながら、レヴィナスのナチに受けた試練(家族全員が虐殺された)とはおよそ違い、アメリカ亡命したアーレントならではの「空虚な理屈」対応のように私は感じた。
当然ながら、ファインの暴力論は、後のアフリカ独立闘争に大きな影響を与えていく。
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