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主たる内容としては、前述の石田梅岩よろしく江戸時代の儒学者・山崎闇斎とその門下。ちなみに、和辻哲郎は『尊王思想とその伝統』(1943年)や『日本倫理思想史』(1952年)の中で、山崎闇斎に触れているが、エキセントリックな側面を嫌い、警戒心が強くあまり詳述していないらしい。この山崎闇斎は、倫理の教科書では、江戸期の朱子学で林羅山の後に少し出てきて朱子学と神道の一致を説く(=垂加神道)でちょこっと記されるくらい。この闇斎の弟子・孫弟子と、現人神創作の真犯人が結びつくのである。
その真犯人とは、清に支配された明からの亡命者・朱舜水である。徳川光國に招かれ、17年間朱子学上の師となった。林家の朱子学は江戸幕府の正統性を証明しようとしたのだが、困難であった。江戸幕府は戦乱を勝ち抜いたが、正統性は、家康を征夷大将軍に任じた朝廷にあることは疑いようがない。光圀によって編纂が開始された大日本史も同様である。光圀は国内の儒学者を集めて編纂が進めたが、山崎闇斎派や元闇斎派が多かった。闇斎が朱子学の正統主義をとことん追求した故らしい。ところでこの「崎門」の三傑のうち、三宅尚斎(しょうさい)を残して、佐藤直方(教条主義的で日本的朱子学などありえないとする立場)、浅見絅斎(けいさい:絶対的忠君思想(前回に記した君主がどうあれ、忠を貫く立場)であり、彼自身は天皇以外を主君としない立場で尊王。幕末の志士に読みつがれた『靖献遺言(せいいけんいげん:画像参照)』の作者)の二人が、垂加神道化に反対して師から離反した。
水戸学の大日本史は、朱舜水の弟子・安積澹泊(あさかたんぱく)、山崎闇斎の孫弟子・栗山潜鋒(せんぽう:)、浅見絅斎の弟子・三宅観瀾(かんらん:)が中心。朱舜水の門下が筆頭で、それを支えるスタッフは崎門中心といっていい。水戸学の幕末維新史への多大なる影響を考えると、侮るなかれ「崎門」である。
ちなみに、赤穂浪士の事件が起きた時、崎門の三傑のうち、浅見絅斎は当然ながら浪士を絶賛し支持、三宅尚斎は高く評価するも条件付き指示、佐藤直方は本来の幕府的朱子学的立場から否定。この否定が効いてか効かずか、後の幕末の志士たちの佐藤直方の評判は良くないそうだ。この赤穂浪士の事件への評価と、昭和の2.26事件の評価についても相関性があって面白い。いずれにせよ、現人神的なるもののルーツは、朱舜水と山崎闇斎門下による水戸学にあるということである。これは、来年度の倫理の授業で触れたいと思う。
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