ところで、七平は内村鑑三に対して、山崎闇斎同様のエキセントリック性を感じていてあまり評価していなかったようだ。また、遠藤周作が描き、求めた日本的キリスト教にも批判的である。こうした日本的キリスト教を求める日本人の心性そのものが、「沈黙」に登場するロドリゴの師フェレイラの言う”恐ろしい沼地”だとする。それは、常に新しい「空気」を生み出し、「水」をも空気に変えてしまい、天皇そのものというより「現人神」への絶対的忠誠への圧力を醸成するものである。七平は、ユダヤ教のシナゴーグで過ぎ越しの祭に招待された時、「継続性の保証のない文化が果たして永続するであろうか?」という疑問にとらわれる。ヘブライ大学の日本学の教授はこの疑問の回答を天皇制に見た。七平は、承久の変後に北条泰時が天皇を政治から切り離し、象徴天皇制にしたことを称賛している。いわば「天」が自然秩序の象徴ではなく、天皇を日本的自然秩序の象徴にしてしまったわけで、この機能は今も続いている。逆説的だが、もしこの機能が失われるとすれば、それは「空気」によるものであり、それを醸成してやまない日本教が元にある。
著者は最後に、内村鑑三が唱えた「2つのJ」について述べている。内村は第一高等学校奉職時代に、Japanではなく、Jesusを選択し、友人の新渡戸稲造も「武士道」を書きながらも最終章で武士道の終焉を説き、キリスト教への帰依を説いている。では七平はどうか。日本教(=天皇制=空気)と戦いながらも、合理的な象徴天皇制を称賛し、日本的資本主義の良さも認識してきた。彼なりの基準の中で、2つのJが最後まで相対していたのだろう。あえて結論を導かないまま彼は鬼籍に入ったのだと。…山本七平、なかなか興味深かった。
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