2021年5月23日日曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅶ

I工業高校の新体育館
T商業高校には7年お世話になった。長く最年少で、自由奔放にやらせていただき、多くの先生方に、今思うと無茶苦茶ご迷惑をおかけした。若いうちは失敗が許されるという典型例のような日々だったと思う。転勤先は、母校を筆頭に、工業高校ばかり書いたが、当時の学校長から、「もう1校書く必要があるが…」と言われ、「お任せします。」と応じたら、希望欄にはなかったI工業高校になった。(笑)しかし、ここもまた、縁のある学校であった。15年間もお世話になった。

商業高校とは、全く正反対で男子ばかりの学校で、最初の印象は「黒」。制服の黒さが目に染みたのである。当然ながら、「やんちゃ」もたくさんいた。勉強は苦手かもしれないが、男気溢れる学校だった。まずは工業高校の特徴と教師集団について記しておこうと思う。

私がここで最初に担任したクラスは、M1Bと言う。Mは機械科、1は1年、BはB組である。つまり、学年より、機械科の方が上位にあるのである。I工業高校は、E=電気科、D=電子機械科と合わせて三科体制である。だから、卒業式で生徒の名前を呼ぶのは担任ではなく、科長の先生である。だが、生活指導部に学年主任ともう1名が在籍し、生徒指導は学校全体で指導する体制がとられていた。

大阪市立の工業高校は当時いくつかあったが、M工業高校などは6つの学校の集まりと言われていた。科の力がすこぶる強いのだ。生活指導面も各科まかせだという。反対にK工業高校は、科を超えて学校全体で指導するという体制をとっていた。I工業高校は、その中間くらいのスタンスをとっていたといえる。

生活指導面(喫煙とか喧嘩とか…)は、年がら年中忙しい学校であった。そういう面では、大変だったが、教師集団は、だからこそ団結していた。各科の工業科教員はもちろん、私の属していた普通科も、極めて濃い関係が生まれた。まあ、15年もいたこともあるが、ここで育まれた人間関係は今も濃い。

最初は、またまた教務課だった。生活指導をやりたいと言ったら、生活指導部長に迎え入れていただいた。ここでも、文化祭の運営を担うことになる。ちょうど体育館が新築され、新しい舞台が出来たのだ。以来毎年のように、文化祭の午前中の全校イベントの中心として動くことになる。…つづく。

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