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具体的にはシベリア鉄道の輸送量の調査、フィンランドやポーランドの反ツアー抵抗運動と連帯、1904年9月、前述の2カ国にアルメニア、グルジア、ラトビアなどから8つの党派の参加を得てパリで反ツアー抵抗諸党連合会議を開く。さらに、1905年の「血の日曜日事件」を受けてさらなる動乱を実現させるべく、実際に武器調達を進めていた。事故や受け入れ態勢の不備で動乱の成功はしないまま、ポーツマス条約が結ばれることとなる。ボルシェビキ勢力を巻き込むことはなかったし、どの程度効果をあげたかは疑問らしい。とはいえ、小説や映画顔まけのスパイ活動だったわけだ。
こうした明石大佐の諜報活動や扇動工作はロシアの治安対策組織・警察庁特報部などに正確に掌握、監視されていた。さらにフランス公使館からでているほとんど全ての暗号電報を入手。日英同盟VS露仏同盟が背景にあり、バルチック艦隊の動向に関する情報もほとんどロシア側に渡っていたという。日露戦争をめぐる情報戦は決して日本が優位だったわけではないことを認識させられる。だから、明石工作をあまり誇張しすぎてはならないというのが、著者・寺島実郎の意見である。
…膨大な教材の集積庫のような本書の中から、最後に明石大佐の話を選んだ。明石大佐の工作がすべてロシア側に筒抜けだったということが驚愕に値すると私は思う。
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