2014年8月23日土曜日

若き日本の肖像を読む。5

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若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーのエントリーを今日も続けたい。サンクト・ペテルブルグ編。ロシアといえば、明石元二郎大佐である。(最後は大将にまでのぼり詰め、第7代台湾総督。)陸軍幼年学校から士官学校、陸軍大学に進学したエリート軍人で、1994年ドイツ留学。1901年駐フランス公使館付武官。翌年11月駐ロシア公使館付武官。広瀬武夫が5年間の任務を終えて帰国したのがその年の3月。日露戦争の英雄二人は、サンクト・ペテルブルグではすれ違っていることになるわけだ。1904年、日露戦争が勃発、公使館は閉鎖されベルリンへ引き上げる。明石大佐は参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀を命じられる。最初はストックホルムを拠点に、以後ベルリン、ジュネーブ、ロンドン、パリなどを舞台に対ロシア諜報・謀略活動に従事する。現在の価値で80億円と言う工作費を児玉源太郎参謀本部次長から得ていたという。

具体的にはシベリア鉄道の輸送量の調査、フィンランドやポーランドの反ツアー抵抗運動と連帯、1904年9月、前述の2カ国にアルメニア、グルジア、ラトビアなどから8つの党派の参加を得てパリで反ツアー抵抗諸党連合会議を開く。さらに、1905年の「血の日曜日事件」を受けてさらなる動乱を実現させるべく、実際に武器調達を進めていた。事故や受け入れ態勢の不備で動乱の成功はしないまま、ポーツマス条約が結ばれることとなる。ボルシェビキ勢力を巻き込むことはなかったし、どの程度効果をあげたかは疑問らしい。とはいえ、小説や映画顔まけのスパイ活動だったわけだ。

こうした明石大佐の諜報活動や扇動工作はロシアの治安対策組織・警察庁特報部などに正確に掌握、監視されていた。さらにフランス公使館からでているほとんど全ての暗号電報を入手。日英同盟VS露仏同盟が背景にあり、バルチック艦隊の動向に関する情報もほとんどロシア側に渡っていたという。日露戦争をめぐる情報戦は決して日本が優位だったわけではないことを認識させられる。だから、明石工作をあまり誇張しすぎてはならないというのが、著者・寺島実郎の意見である。

…膨大な教材の集積庫のような本書の中から、最後に明石大佐の話を選んだ。明石大佐の工作がすべてロシア側に筒抜けだったということが驚愕に値すると私は思う。

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